中芸みんなの日本遺産〜「サブストーリー」コレクション〜

「魚梁瀬(やなせ)の夢を見るね」

 

みなみ 寿ひささん


◆ ご紹介 ◆

南さんは、昭和20年(1945年)生まれの72歳(インタビュー当時)。安田町(やすだちょう)に生まれ、父親の仕事で小学校一年生から魚梁瀬(やなせ)地区に引っ越しました。ご両親は魚梁瀬営林署の児童合宿所(以下、合宿所)にお勤めで、父親は寮長(りょうちょう)さん、母親は寮母(りょうぼ)さんでした。当時、合宿所に通っていた約100名以上の児童・生徒の面倒を見ていたそうです。

 

聞き取り 平成30年(2018年)5月


同級生は18人。ずーっと一緒だった

 小学校に通う前は、父親の転勤で中川事業所、東川事業所に住んでいました。「友達とガソリン(筆者注釈:森林鉄道)の間でかくれんぼしたり。ロープで作ってもらったブランコで遊んだ記憶しか無いわね」。小学校一年生に上がるときに魚梁瀬地区に引っ越してきました

 

 小学校・中学校の9年間を魚梁瀬で過ごした南さん。子供の頃の記憶を思い出しながら、語っていただきました。「小学校の一学年は18人でした。終戦の年に生まれましたので、少なかったです。けんど、今よりは多いきね(笑)。転校生や転入生はあんまりいなかったように思いますけど。6年間、ずーと18人でした」。「女の子やき、着せ替え人形とか、紙で作って、ほんで色紙でこう、はさみで切って洋服作ったりとか。箱に集めて大事に宝物であったきそんなことして、遊んだがやないろうか」。

小学生時代の南さん
小学生時代の南さん

中学時代の娯楽は映画館

 中学校時代、生徒の娯楽と言えば映画館。でも自由に見ることはできなかったようです。「親が帰ってくる5時までには宿題しなさいと。で宿題してご飯食べてお風呂入ったら、もう寝るよりほかなかったわねえ」。「映画はねえ、学校から許可が下りんと、行けれんがよ。自由に見れんがよ。上映する映画の内容にもよるろうし、あんまり許可したら親からもブーイングが出るろうし。とにかく、学校から許可がなかったら、映画は行けんかったがです。許可が下りたら、みんな映画いきよったわねえ。それこそ、当時の日活映画。裕次郎とか小林旭とか、浅丘ルリ子とかね。鞍馬天狗らも見た記憶があるで」。

 

 魚梁瀬から外出する事はあったのでしょうか。「それはあんまり無かったと思う。(森林鉄道は)結局一日に朝来たら夕方の便で帰らだったら泊まらないかんきなるきね。よっぽど病院とかなんかやなかったら下りてきて用事を済まして、その日のうちに帰るき。それほど時間が無かったように思うけんど」。それでは森林鉄道に乗るのはどんなときだったのでしょうか。「まず病院。それと歯医者が魚梁瀬に無かったきね。歯医者さんね。そのついでに買い物とかかね。そうそう、安田町の町までね。2時間かけて」。

 

 魚梁瀬への想いが、ふと口をついて出てきました。「ええところです。やっぱり。好きです、私」。「夢に見るゆうたら、魚梁瀬の夢を見るね。それこそダムができて、丸山台地(まるやまだいち)へ移ったときの夢が多いねぇ。記憶が薄れてきゆうがね(笑)」。

 

父親は寮長さん

 

 父親は合宿所の二代目寮長さんとして、勤めていました。「父は5時まで営林署に勤めて。5時から9時半まで合宿所にいて。子供達を順番にご飯食べさせて、お風呂入らせて、勉強させてね。100人ばーいたきね。合宿所の中に文房具を売るところもあったきね」。

父・清岡彦四郎(きよおかひこしろう)さん
父・清岡彦四郎(きよおかひこしろう)さん

 母親は合宿所の炊事や洗濯を担っていたそうです。「一部屋が、十畳も十五畳もあって。お布団敷いて。まあ言うたら雑魚寝、みたいなもんやねえ。そのお布団の、破れたがとか、おねしょする子の始末をしたりとか母がしよったき。ほんで、夏休みになったらみんな親の元に帰るき。その間にお布団を干したり、洗うたり、破れゆうのを縫うたりして。うん、そういう仕事をしよったきねえ」。

母の清岡正美(きよおかまさみ)さん(二列目向かって右)
母の清岡正美(きよおかまさみ)さん(二列目向かって右)

インタビューを終えて


小学校一年生から中学校を卒業するまで魚梁瀬で過ごされた南さん。ふと、口をついて出た「やっぱり。好きです」という魚梁瀬への想いが印象的でした。同級生の多くは、魚梁瀬を離れて暮らしているそうですが、南さんのように今でも魚梁瀬の夢を見るのでしょうか。ご両親は合宿所にお勤めで、たくさんの写真も提供していただきました。

 

【構成/赤池慎吾】