中芸みんなの日本遺産〜「サブストーリー」コレクション〜

昭和20年代の「ご馳走」の記憶

 

 

安岡(やすおか) 祥子(さちこ)さん

 


◆ ご紹介 ◆

安岡さんは、昭和13年(1938年)生まれの80歳(インタビュー当時)。奈半利(なはり)生まれの父は、朝鮮全羅南道(現在の韓国)でお菓子屋さんを営んでいました。戦争で父を亡くし、母と兄弟3人で奈半利町に引き上げてきました。奈半利での生活は、小学校4年生で乗った森林鉄道の思い出など、新しい発見がいっぱいあったようです。周囲を山に囲まれた世界は安岡さんにどのように映ったのでしょうか。

 

聞き取り 平成30年(2018年)5月


「空が狭かった」

 昭和20年(1945年)、朝鮮から引き揚げてきた安岡さん。奈半利小学校に通い始めました。「引き上げてきたときは食べるものが無かったですからね。お芋くらいしか」。「学校へ行くのに、稲わらがあるでしょ。あれを編(あ)んで草履を履いていきました。初めて靴を履いたのは4年生」と笑います。
お住まいがあった樋ノ口(ひのくち)には、森林鉄道の修理工場がありました。「すごい賑やかだったのよ。人も多かったです。すぐ近くに藤村製絲(ふじむらせいし)(注1)がありましたから、若いお嬢さんがたくさんいて華やかでしたよ。道路を隔てたところに、機関庫があってね」。

 春の遠足は、山の遙か先にある魚梁瀬(やなせ)でした。「小学校4年生か5年生の時、遠足で魚梁瀬(やなせ)に行ったのよ。トロッコ列車に乗ってね。ひとクラスが50名くらいだったからね。そのくらいで乗って行ったと思います」。「怖かったですよ。下を向いたら崖でしたからね」。
「田舎ですよね。空は狭かったですよ。「空が狭(せま)―っい」て言ったのを覚えてますよ」。太平洋に面した奈半利町とは大違いだったようです。

 

ご馳走が食べられる日

 食べるものも満足に無かった暮らしですが、結婚式は盛大に行われていたそうです。「小学校6年生の時ね。父の一番下の弟(叔父)の結婚式があってね。それはそれはすごかったんですよ。近所のおばちゃん達が赤い手ぬぐいに白い割烹着を着てね。15、16人くらいは来ていたんじゃないかと思います。庭でこーんなに大きな窯でご飯を炊いてね。子供だから「あっちへよれ」とか「よってきたらダメ」とか言われたけど、どうしても見たくてね」。

 

 安岡さんは当時の料理をよく覚えています。必ず登場したのは、高知県の郷土料理ともいえる「皿鉢(さわち)料理」。「やっぱり皿鉢料理はお祝いの時しか食べられなかったですね。私たちの子供の頃は」。この料理は大皿にカツオのタタキや寿司などの料理をたくさん盛ったものを指しますが、安岡さんが経験した皿鉢料理はどのようなものだったのでしょうか。「今の皿鉢とは違いますね。高知市内でやってる皿鉢祭りなんかとも違いますね。まず、メインが鯖寿司です。皿鉢の真ん中が鯖寿司。手前に昆布や海苔巻き。そして煮物、焼き物、練り物ね。そいで甘い物がきて、果物がくるわけですよ。それにつき物はそうめんね」。現在では、地元の中学生達に、この記憶に残る皿鉢料理の作り方を教え、伝えているそうです。

皿鉢料理の盛り付け
皿鉢料理の盛り付け

 たくさんの来客があるため、当時は4日間にわたり結婚式が行われていました。「一日目は、すごい近い親族と、町長さんや大きな家の当主とか有名人が参加するのね。二日目は新郎のお友達。三日目が新婦の友達や親戚達。四日目は「まな板洗い」って言ってね、手伝いをしてくれたおばちゃん達をねぎらうの。四日目は残り物なんかを使って、やってたんでしょうけどね。「結婚式をやると家が傾く」っておばあさんが言ってたわよ」。

 

 

注1▷藤村製絲株式会社(本社は奈半利町)は、大正6年(1917年)に藤村米太郎氏により創設された。藤村氏は製糸会社のほか酒造業、林業、製材業等も経営していた。

 


インタビューを終えて


昭和20年代の奈半利町での暮らしを隅々まで語っていただきました。「食べるものがお芋」しか無かった時代を経験された安岡さんにとって、結婚式の皿鉢料理は、まさにご馳走だったのでしょうね。インタビューをしながら、私のお腹がグーグー鳴っていたのは、ここだけの秘密です。

 

【構成/赤池慎吾】