梼原町ライフヒストリー集

稲木に架かる
ソバの記憶

中岡(なかおか) 広美(ひろみ) さん


■ ご紹介 ■


中岡広美さんは、昭和22年(1947年)生まれの76歳。梼原町四万川区坪野田(つぼのた)で生まれ、高校卒業まで暮らしました。4人兄弟姉妹の広美さんは、小学校2年生から炊事や子守をして家族を助けたと話します。昭和48年(1973年)、四万川区茶や谷(ちゃやだに)に嫁入りされ、今もご主人の中岡幹雄さんと暮らしています。


聞き取り 令和5年(2023年)7月

 


蘇る「木かるい」の記憶

 中岡広美さんの父である中越浄(なかごえきよし)さんは、大正4年(1915年)生まれ。四万川区坪野田の出身です。福岡県小倉の軍需工場につとめていた際、下宿先の娘さんであった母・千代子(ちよこ)さんと出会いました。その後、夫婦は子供2人をつれて坪野田に戻り、そこで生まれたのが中岡(旧姓:中越)広美さんです。

 百姓であった浄さんは、自家用の米、イモ(サツマイモ)、キビ、野菜を育てていました。広美さんは今でも「夏の暑い日にイモ畑で草引きをしたのを覚えている」と言います。千代子さんは四万川の診療所に助産師として勤めていました。夜中でもモーター(原動付自転車)に乗って子供を取り上げに行く姿を今でも鮮明に覚えています。
通っていた四万川西小学校は、始業のチャイムが鳴ってから走っても間に合う距離に位置していました。同級生10人は仲が良く、ドッジボールやメンコなど男の子に交じって遊んだと言います。

 助産師として家の外で働く母に代わり、広美さんが一家の家事を任されていました。毎朝、家の拭き掃除をしてから学校に行き、夕食の支度も広美さんの仕事です。学校から帰るとすぐ、白米を少し入れた麦飯一升をおくど(竈)で炊きます。
料理に使える食材は決して豊かとはいえませんでした。野菜はジャガイモ、大根、白菜が自宅の畑で取れました。豆腐だけは文丸の豆腐屋で購入し、それらを使って煮物や汁物を作りました。広美さんは、小学校2年生から小学校を卒業するまでの間、毎日夕食を作り続けました。「肉を食べた記憶はあまりない」と振り返ります。肉は無くとも、家族からの評判は上々だった、と笑いながら教えてくれました。

 料理の話から山の話に繋がります。ガスの無かった時代、炊事には薪(たきぎ)を使いました。この薪を集めてくるのも広美さんの仕事です。毎週休みの日には、桜峠の細い山道を登り、オイコ(負子)に薪を積んで、山から2回にわけて運びます。半世紀以上、口に出すことがなかった「木かるい」という言葉がふいに口からついて出てきました。

 

「木かるい」の様子を再現する広美さん
「木かるい」の様子を再現する広美さん

セーラー服に魅せられて

 小学校4年生にあがると、家の手伝いとは別に近所の子供の子守(こもり)を始めました。学校から帰宅して、家事が終わるとすぐに坪野田集落の一番奥の家に行き、まだおしめも外れていない2人の男の子の面倒を見ます。一人は手を繋ぎ、もう一人は背負い、近所を散歩したり、一緒に遊んだりして時間を過ごします。子守が終わり、家に帰る頃にはあたりはもうすっかり日が暮れ、懐中電灯を灯して夜道を帰宅する日々が続きました。

 子守のご褒美について伺うと、広美さんの声が弾みます。ご褒美はお金ではなく、「セーラー服を買ってくれる」という約束でした。セーラー服に魅せられた広美さんは、平日はもちろんのこと土曜や日曜も含め、毎日子守に通いました。友達と遊ぶことを我慢して、おんぶした子供のおしめで背中が濡れても、文句も言わずに一年間毎日続けました。

 ついに念願のセーラー服を手に入れた広美さん。スカートまで揃える余裕は無く、下には「もんぺ」を履いて登校したそうです。それでも、セーラー服を着て登校する広美さんは一年間子守を続けた達成感と笑顔にあふれていたことでしょう。

 

嫁ぎ先の茶や谷・中岡家にて(左が広美さん、右が夫・幹雄さん)
嫁ぎ先の茶や谷・中岡家にて(左が広美さん、右が夫・幹雄さん)

稲木に架かったソバの実

 梼原高校農業科を卒業後、求人募集のあった徳島県徳島市の会社に就職を決めました。生まれ育った梼原町を出る日、一人で行くのは心細く、母が一緒についてきてくれました。

 昭和47年(1972年)3月、7年間務めた会社を辞め、給料で買ったいくつかの着物と一緒に坪野田に戻りました。自宅に戻りすぐに、叔母の知り合いの紹介でお見合いがあり、トントン拍子に話が進み、茶や谷集落の中岡家に嫁ぐことが決まりました。広美さんは、中岡家に挨拶に訪れた際、当時はまだ茅葺き屋根だった母屋の縁側に座り「まー見晴らしのえぇとこじゃねぇ」と、後に姑になる綾子さんと交わした最初の会話を思い出しました。


 昭和48年(1973年)10月27日、雨が降る中、親戚や友人らが乗った車9台ほどが列をなし、広美さんは中岡家に嫁いできました。
角隠しを付け、華やかな色打掛を着た広美さんは、多くの人に祝福され、自宅へと続く坂路をゆっくり歩いて登ります。まわりの賑やかな雰囲気の中、稲木に架かったソバの実が目に入りました。雨に濡れるソバを見て、「もっと早く取り込みたかったんだろうけど、忙しくて出来なかったのかな」と思いを巡らせたと言います。

 

 この時にはすでに、中岡家に嫁ぎ、暮らしていく心の準備も出来ていたのでしょう。翌年からは稲木に架かるソバの景色は広美さんの日常のものとなり、姑の綾子さんと一緒に5升(1升で5〜6人前)の年越しソバを打つことが恒例行事になりました。

結婚式の翌日
結婚式の翌日

 家事や育児に追われ、忙しい日々を過ごす広美さん。茶や谷で迎えた初めての春、近所のご婦人と一緒にゼンマイ採りに行った記憶が蘇ってきました。
 4月頃、鎌を持ち、オイコを担いで近所のご婦人5〜6人と連れ添って山に入ります。この時は、四万川区上組に歩いて行きました。素早い人は2斗袋(30〜40リットル)一杯にゼンマイを採ったと言います。
山登りが得意ではなかったという広美さんは、周囲に比べると少なかったようです。採ったゼンマイは湯がいてから干し、水で戻して、油炒めにしました。実家では馴染みの無かったゼンマイ採りは、中岡家での暮らしの楽しみの一つになりました。

 

嫁入り時に登ってきた坂道を見つめながら
嫁入り時に登ってきた坂道を見つめながら

インタビューを終えて


ご自宅を訪問させていただく度に、手料理を振る舞ってくれた広美さん。イモ餅や五目飯、煮物、漬物など、どれもとても美味しかったです。ご主人の幹雄さんと「ソバを収穫後にいつまで干すのか」という話になりました。考え込む幹雄さんの横から、広美さんが「10月27日にはまだ干してたね」と即答されたのを記憶しています。インタビューを終えて、「10月27日」が広美さんにとって(もちろん幹雄さんにとっても)とても大切な日であったということがわかりました。録音したテープレコーダーから流れてくる小鳥のさえずりを聞くと、縁側から見える茶や谷の風景とお二人の笑顔が目に浮かんできます。


【構成/赤池慎吾】