梼原町ライフヒストリー集

「父親は一年中、炭を焼いていたね」

 

明神(みょうじん) 孝義(たかよし) さん

 


■ ご紹介 ■


明神孝義さんは、昭和22年(1947年)生まれの75歳。現在は、梼原町に住みながら、愛媛県鬼北町の森林で伐採作業に従事されています。梼原町東区大蔵谷(おぞうたに)で生まれ、幼少期は炭焼きや草刈りなど家の手伝いが日課でした。当時の暮らしぶりを思い出しながら、かつて少年であった明神孝義さんの目に映っていた山の様子を語っていただきました。


聞き取り 令和5年(2023年)2月

 


牛とともに消えた草を刈る子供達の姿

 

明神孝義さんは、父・登(のぼる)さん、母・照美(てるみ)さんの次男として大蔵谷(おぞうたに)に生まれました。家には、両親と5つ年上の兄・義典(よしのり)さんの家族4人と「男衆」(おとこし)さん、「女子衆」(おなごし)さんと呼んだ2人の奉公人が住んでいました。家族と奉公人の胃袋を支えたのは、水田7反のほか、畑で栽培される麦、豆、菜種、キビやカライモ(サツマイモ)です。


農業に欠かすことの出来ない牛は、家族同様に大切にされていました。明神家では、2頭の牝牛を飼っており、その餌となる草を刈るのが孝義さんの仕事でした。春、4月から5月は、草刈りの季節です。孝義さんは、学校から帰ると、男衆さんと二人でリヤカーを引いて、家から約1km離れた「草場」(くさば)へと向かいます。二人で20束ほど、リヤカーが一杯になるまで草を刈ります。孝義さんはここで、鎌の使い方や草の束ね方を身につけたと言います。帰宅後、採ってきた草をハミ切りで細かくし、芋や黍の皮などをまぜて牛に与えます。昭和20年代まで、孝義さんのように草刈りをしていた子供達があちらこちらに見られました。


いつ頃まで牛を飼っていたのですかという問いに、孝義さんは「みょーに覚えちょらんのー。中学まではいたと思うが……」と答えます。気が付くと、梼原町の景色から牛と草を刈る子供達の姿が消えていったようです。

 

生まれ育った大蔵谷の自宅にて(左が孝義さん、右が兄・義典さん)
生まれ育った大蔵谷の自宅にて(左が孝義さん、右が兄・義典さん)

四度の食事と炭焼き

今では、高速道路も整備され、高知市から車で1時間半ほどの距離にある梼原町ですが、幼少期の明神孝義さんにとっては、高知市はとても遠く、そしてきらびやかな大都会というイメージでした。中学を卒業するまで、高知市に足を踏み入れたのは修学旅行と昭和33年(1958年)に開催された南国高知総合博覧会の二回だけだったといいます。


当時、梼原町で現金収入を得る仕事は、まだそれほど多くなかった時代です。孝義さんが、「父親は一年中、炭を焼いていたね」と言うように、炭焼きの仕事は明神家の家計を支えていました。父親は所有する山はもちろんのこと、周辺の「山を買って」(筆者注釈:炭焼きの権利)、孝義さんが中学を卒業するまで炭を焼いていました。多い時には、3つも炭窯を設置して、家族総出で炭を焼きました。孝義さんは家族とともに山に入り、手鋸で木を伐り、木材を運んだと言います。炭焼きは重労働で、朝5時に朝食を済ませると、すぐに山に向かいます。その時、「ふご」と呼ぶ竹で編んだ辞書のような大きさの弁当箱を持って行ったそうです。中身部分だけでなく、蓋部分にもぎっしりと麦飯を詰めたほか、芋やキビを持っていきました。10時に箱の中の麦飯、午後2時頃にさらに蓋の部分に詰めた麦飯をぺろりと平らげる、という日々でした。


炭には三種類あり、樫の木が一番の良品、次に楢の木が続きます。これらは「角炭」(かくずみ)と呼ばれ、高値で売れました。その他の雑木は「丸炭」(まるずみ)と呼ばれていました。炭は種類ごとに分けて、「だす」と呼ばれる茅で作られた炭俵に入れ、出荷されたと話します。

「だす」に詰めて出荷された炭(梼原町立歴史民俗資料館)
「だす」に詰めて出荷された炭(梼原町立歴史民俗資料館)

胃袋が覚えている「ヤキヤマ」の記憶

孝義さんの住む大蔵谷には、山の稜線付近に皆が「烏帽子山」(えぼしやま)と呼ぶ共同で管理・利用する採草地がありました。毎年夏の盛りを過ぎた頃、大蔵谷の人々が山に登り、各家に決められた範囲の茅を刈ります。刈り取った茅は、円錐形に積み重ね畔(くろ)をつくり、翌年まで乾燥させます。こうして乾燥した茅を里で利用するため、烏帽子山から集落まで直線で約1kmの距離を、「金吊る」(カナヅル)と呼ぶワイヤーに吊り下げて、1カ所ほど経由させて集落の近くまで降ろします。孝義さんはこの運搬方法を「カナヅルで飛ばす」と表現されていました。そこからは、孝義さんらがオイコに茅を担いで自宅まで運びました。孝義さんの家では、牛の敷草や水田・畑の肥料にしたと言います。

 

春、採草地を維持するための火入れが、これも集落の共同作業で行われます。5月〜6月、田植えが一段落すると、春に火入れをした烏帽子山に家族そろって登ります。そこには、ワラビやゼンマイ、ウドにイタドリ等の山菜がぎっしり生えています。収穫した山菜は、自宅の釜で煎り、それを揉んであく抜き保存しておきます。祭りや正月などのハレの日に「お煮しめ」として食べました。明神家のお煮しめは、「ちょっと辛めの醤油味」だったと言います。孝義さんは「焼いた(ヤキヤマ)ところのウドは太い」とも記憶していました。
ワラビにゼンマイ、それに自宅で採れた大根や椎茸、コンニャクと一緒に炊いたお煮しめは各家庭でそれぞれ作り方や味が異なります。ヤキヤマでしか味わえない家族の大切な味だったようです。

 

山頂から自宅付近まで茅をカナズルで飛ばした
山頂から自宅付近まで茅をカナズルで飛ばした

数センチの毛苗からはじまった森づくり

孝義さんが梼原高校に進学し、最初の冬を迎えた昭和38年(1963年)、この年は梼原町で未曾有の豪雪被害、通称「サンパチ豪雪」がありました。通学路には、道路の除雪で押し固まった雪が道沿いの家の一階屋根まで届き、校庭には1m以上の雪が積もっていたとか。

ちょうどこの頃、山は大きな転換期を迎えていました。これまで明神家の家計を支えていた炭焼きが終わり、植林が始まったのです。その方法は、まず山から杉の実を採取し、細かくバラして苗床に種を播くことから開始。発芽した後もそのまま苗床で2〜3cmほどの「毛苗」(けなえ)になるまで育て、その後、毛苗を二回ほど畑に移植して、苗長が30cmほどの「山行き」(やまゆき)になったら炭焼きで伐採した山に植え付けるというのが一連の作業です。明神家では、所有する山に杉を植え付け、余った「山行き」は森林組合に販売したと言います。
孝義さん家族の手によって、炭焼きから植林へと移り変わってきた山。現在では樹齢60年を超え、梼原町の山々の緑を彩る一部となっています。

梼原町中心部から望む烏帽子山(右上)
梼原町中心部から望む烏帽子山(右上)

インタビューを終えて


明神孝義さんには、お仕事でお疲れのところ、夕食を食べながら3時間ほどインタビューにお付き合いを頂きました。孝義さんは60歳の定年を期に伐採作業の仕事を始めたといい、仕事の苦労話や林業の現場作業についても詳しく教えてくれました。幼少期に炭焼きの手伝いで食べたという弁当の話を、笑顔でとても美味しそうに話してくれたのが印象的でした。


【構成/赤池慎吾】