中芸みんなの日本遺産〜「サブストーリー」コレクション〜

「魚梁瀬(やなせ)えぇところだった」

西村にしむら 文雄ふみお さん 西村にしむら 良子りょうこ さん


◆ ご紹介 ◆

西村さんは、昭和7年(1932年)生まれの86歳(インタビュー当時)。大豊町(おおとよちょう)に生まれ、昭和33年(1958年)に奥様の良子さんと1歳になったばかりのお子さんの3人で魚梁瀬地区に移住。その後、昭和43年(1968年)までの10年間、魚梁瀬地区にお住まいになりました。西村さんが従事されたのは苗木用種子を採取する「木のぼり」というお仕事です。「木のぼり」というお仕事や、魚梁瀬での暮らしはどのようなものだったのでしょうか。当時の思い出を奥様・良子さんと一緒に笑顔で語っていただきました。

 

聞き取り 平成29年(2017年)4月


藤村製絲社有林での山仕事

 昭和33年(1958年)、西村さんは妻、良子さんの叔父の紹介で、藤村製絲株式会社(注1)の社有林で林業をするために魚梁瀬地区に家族3人で移住した。同社は1000haを超える社有林を魚梁瀬に所有しており、多くの林業労働者が従事していた。

藤村製絲株式会社社有林を望む
藤村製絲株式会社社有林を望む

「最初の仕事は造林だった。木を植える仕事ね。春から夏にかけて苗木の植え付けをして、秋は刈り上げ(筆者注釈:下草刈り)、冬は伐採作業だった。数年間は鋸で伐採してたね。昭和38年(1963年)頃にチェンソーが入ってきてね。当時、日給が2,000円くらいの時代に2~3万円した気がする。高知市内の「サンシン機械」で、アメリカのマッカラー社製のチェンソーを買ったのを覚えている」。

 

「木のぼり」という仕事とは?

 魚梁瀬でのお仕事をうかがう中で、聞き慣れない「木のぼり」という言葉が出てきた。「「木のぼり」って言うのは、高知県林業試験場の依頼を受けて、魚梁瀬の天然杉に登って、実(著者注釈:種子)の付いた枝を切り落とす仕事のこと。この仕事は9月20日頃から10月20日ころまでの1カ月だけ。雨の日は休みだから、年間でだいたい20日くらいだった」。「木のぼり」とは、優良な苗木をつくるためのスギ種子を母樹(ぼじゅ)から採取する仕事を指すようだ。母樹には、木肌が良く、杉葉が柔らかい天然杉が選ばれたという。

「木のぼり」 出典:高知営林局(1972)『高知営林局史』写真集6
「木のぼり」 出典:高知営林局(1972)『高知営林局史』写真集6

「当時、魚梁瀬地区に8名ほど「木のぼり」がいたね。給与は良かったよ。当時、伐採作業の日当がだいたい日給2,000円くらいだったが、「木のぼり」は日給2万5,000円くらいあったんじゃないかな」。「誰でもできる仕事じゃ無いね。危ないからね。二股に分かれている木は上に登れないから、そのときは隣の木から飛び移る。ロープを投げて飛ぶ。しっかり飛びつかないと大変なことになるよ。実を採取した後、木から降りるときに気が抜けて、怪我をする。当時、同僚が木から落ちて半身不随になった。小さな怪我もあったしね」。天然の魚梁瀬杉は、人工林とは違い、樹高50mを超える大木だ。「千本山(せんぼんやま)調査の際には、天然杉に11本のぼったよ。樹高を調べるために先端まで登ったときは、55mあったね。もう50年も前の話だから、今ではもっと大きくなってるよ(笑)」。

 

 種子の採取には多くの仕事があったようだ。まず、上述のように「木のぼり」が母樹に登り、実(種子)の付いた枝を下に切り落とす。母樹の下には、一名の女性がいて、落とされた枝から実の付いた葉をきざむ。この作業を「こきり」という。さらに、「こきり」によってバラバラにされた葉から実をむしり、袋に詰める「みとり」と呼ばれる女性が5~6名いた。「木のぼり」、「こきり」、「みとり」の3つの仕事がセットになっていたようだ。採取された種子は、一人2斗(1斗は約18リットル、米の場合は約15kg)を背負って帰宅したという。

 

魚梁瀬地区での暮らし

 魚梁瀬での暮らしはどのようなものだったのだろうか。西村さんはお酒を飲まなかったが、夜や雨の日には自宅に多くの訪問客があったようだ。「夜や雨の日は博打が多かったね。おいちょかぶ。男も女も老人も皆やったね。博打の親が勝ったら「てらせん」を会場となった家主に払ったね。賑やかだったよ」。

「魚梁瀬はえぇところだったね。人がいい。人を痛めたり、悪い人はいなかった。いまでも魚梁瀬の暮らしを思い出すよ。ホントにえぇ時代で、えぇ所やった」。

 

 

 

注1▷藤村製絲株式会社(本社は奈半利町)は、大正6年(1917年)に藤村米太郎氏により創設された。藤村氏は製糸会社のほか酒造業、林業、製材業等も経営していた。

 


インタビューを終えて


筆者が大豊町を訪問したとき、地元の方に「魚梁瀬に住んでいた方がいるよ」とご紹介を頂いたのが西村さんご夫婦です。突然の訪問にもかかわらず、快くインタビューに答えていただきました。当時の記憶を思い出しながら「魚梁瀬はえぇところだった」と顔を見合わせながら微笑んでいたご夫婦の姿が印象に残っています。

 

【構成/赤池慎吾・岩佐光広】