中芸みんなの日本遺産〜「サブストーリー」コレクション〜

森林鉄道を支えた修繕(しゅうぜん)

 

岡田(おかだ) 慶一郎(けいいちろう)さん

 


◆ ご紹介 ◆

岡田さんは、昭和6年(1931年)生まれの84歳(インタビュー当時)。馬路村(うまじむら)にお生まれになった岡田さんは、森林鉄道の保線作業である「修繕」に従事されていました。木材を運ぶだけで無く、地域住民の「足」として必要不可欠であった森林鉄道の安全を守っていたのが岡田さん達です。

 

聞き取り 平成28年(2016年)2月


昭和南海地震と森林鉄道

 岡田さんは、馬路尋常小学校(初等科6年、高等科2年)に通っていた。高等科在籍時に終戦を迎え、卒業後しばらくは民有林の杣(そま)(注1)をやっていた父親の手伝いをしていた。「昭和21年(1946年)に親父と杣の仕事するより俺と仕事せんか」と修繕の工区長をしていた叔父に誘われ、修繕の仕事に就く。修繕とは、森林鉄道線路の保線手を指し、線路の安全確認や除草作業、レール角度調整、枕木・レール交換等を行う仕事を指す。

修繕 出典:寺田正(1991)『林鉄 寺田正写真集』
修繕 出典:寺田正(1991)『林鉄 寺田正写真集』

 修繕の仕事を始めたときのことを良く覚えていた。「昭和21年(1946年)12月12日、(働き始めたのを)覚えてる。その一週間たったら南海大地震(注2)やったきね。自分らの仕事する工区に大崩壊があってね、苦労したんですよ。今のように機械が無く、「てみ」と「もっこ」で土を捨てるばーでね。何カ月もかかったのを覚えとりますがね」と、働き始めてすぐに大仕事が待っていたという。

 終戦間もない当時、食料調達も大切な仕事だったようだ。「修繕に入って間もないころには、雑役(ざつえき)みたいなこともやった。山奥へ引っ張って行かれて、杣さんの伐った跡のゴソ(注3)を焼いて、大根を作るとかね。そんな仕事もした。昔はね、大根、小豆、大豆、そば、を伐採跡地で育てた」。

 

「修繕」という仕事

 さらに詳しく修繕の仕事について、教えていただく。修繕の仕事は、決められた工区の担当制で、就職したばかりの岡田さんは「槙の谷口」(まきのたにぐち)(馬路村)から「二号橋」(にごうきょう)(安田町)までの約9kmを担当されていたという。多くは、男性工区長と作業員(主に女性)が6人一組となり、線路の安全確認や専門工具を使って除草作業、レール角度調整、枕木・レール交換等を担っていたと話す。

「その時分(筆者注釈:昭和21年(1946年)頃)、まだ朝暗いうちに先輩と巡視に行くわけ。朝2時頃には家を出て行ったな。今のように懐中電灯のような明かりは無いから、松明(たいまつ)を持ってね。馬路から安田の二号橋(にごうきょう)という橋があってね。その橋まで行ってね、国有林と民有林との境に休憩所があってね、そこでストーブを焚いて一緒に働く仲間を待ったわけよ。巡視の仕事は手当が付いたね(笑)」。

「枕木を変える時は、レールとレールの幅を762mmにはかって、スパイク(筆者注釈:犬釘)打つのが決まり。使う道具は、ゲージとスパイクとビタ。カーブのレールは「ジンクロウ」という機械を使って人力で曲げる。曲げる人と角度を見る人が一緒に作業をする。道具はぜーんぶお国のもんやったね」。

スパイク
スパイク
ビタ
ビタ
ジンクロウ
ジンクロウ

 主な仕事は枕木を替えることだった。その大変な作業はすべて人力で行われていたという。「(工区長の判断で)枕木が古くなったり、折れたり、ちびたら替える。レールの長さは一本だいたい5m。その間に枕木が12本は入っていたね。レールの継ぎ目の下には、必ず枕木がいくようにね。レールの継ぎ目が違ってる場合は、枕木を二本置いてね。両方からビタで土を詰めた。橋の上もおんなじ間隔で置いた。ただ、橋の上は枕木が大きかったね。橋を人が通るところは、板を打つ場合と、枕木と枕木の間に古い枕木を置く場合があったね」。

  さらに枕木について貴重なお話を聞くことができた。「木の質によって違うね。自分らが入った頃は、アスナロの木の枕木を使っていてね。自分らも聞いた話じゃけんど、犬がトロ引きを使っていた時(筆者注釈:明治末から大正時代頃)の枕木じゃなかったかね。腐りが遅かったね。木としては柔らかい風(ふう)じゃったけど。それが働き始めた頃には、ぼつぼつの残っていてね。痛んだところをハツって(筆者注釈:削って)使いよったね」。

  さらに枕木の話が続く。どのような樹種が使われていたのだろうか。「トガ(筆者注釈:ツガ=栂)もあった、モミもあった、それから橋の枕木にはケヤキもあったね。大きなケヤキの木が生えてたから、それを枕木に使ったね。ブナも使ったね、だいぶ。何年頃じゃったろうか、ブナはあんまり腐るから防腐剤を注入した。それはもううるさかったね、使うのに。暑いときには油がジュージューでるし、皮膚が弱い人は負けるしね。その油に」。現地にある様々な樹種が枕木に使われていたようだ。どの樹種が使い勝手が良かったのか。「トガ、モミを使ったね。製材で引きもしたし、木挽き(こびき)ゆうて事業所の上でだいぶ引いたね。枕木を専門に引く木挽きさんが2人いて、その枕木は良かったね。あの人らは徳島県から来ちょったね」。

 

給料は安いもんじゃったね

 朝、日の出前から線路の確認作業をして、夕方の暗くなるまで保線作業をされていた岡田さん。修繕のお給料について伺うと、「給与は安いもんじゃった。営林署の作業員の給料は安かった。(廃線後)修繕から造林に移ってから、子供二人を高校にやるのに給料がたらん。当時、木の値段が上がったときで、山を一つ売って子供を高校、大学に行かせた」、と話す。

 

 

 

注1▷杣とは、主に伐採を専業とする職業集団を指す。

注2昭和21年(1946年)12月21日午前4時過ぎに発生した昭和南海地震。

注3林地に残された切り株や枝条(しじょう)のことか。

 


インタビューを終えて


私は、岡田さんにインタビューするまで、修繕という仕事があったことを知りませんでした。もっと機械的に線路が修理されているものとばかり思っていました。岡田さんのお話を伺って、修繕はすべて手作業で行われていたこと、区間を定めてチームでお仕事をされていたことなどがわかりました。修繕という仕事とそこで働く人々がいたからこそ、森林鉄道が運行できていたのだなと、改めて勉強になりました。

 

【構成/赤池慎吾】