梼原町ライフヒストリー集

烏帽子山の山頂で
見た宝物

 伊藤(いとう) 辰子(たつこ) さん


■ ご紹介 ■


伊藤辰子さんは、昭和6年(1931年)生まれの91歳。津野町高野野越(現在の津野町)に生まれ、小学二年生の時に母親の里である伊藤家の養女となり、梼原町太郎川で育ちました。趣味である切り絵の腕前は目を見張るものがあり、梼原町立歴史民俗資料館のほか町内のあちこちに素敵な作品が展示されています。半世紀以上も前、梼原町の町中からも見える烏帽子山(えぼしやま)との思い出を語っていただきました。


聞き取り 令和4年(2022年)10月、令和5年(2023年)2月


「もらわれ子は大変よ」

辰子さんは父・河野倍義(ますよし)さんと母・緑(みどり)さんの7人兄弟姉妹の4番目として、津野町高野野越に生まれました。お産に立ち会った「とりあげ婆さん」の名前から一字をもらい、「辰子」と命名されました。父は津野町で有数の商売人で、下駄製造、紙漉き、炭を扱う商売をしていたと言います。

 

辰子さんの運命を大きく変えたのは、7歳になった小学二年生の時。母親の里である伊藤家には子がなく、「七人のうちどの子とは言わんから、えい子(筆者注釈:だれでも好きな子)をあげる」となり、辰子さんは伊藤家の養女となり、梼原町太郎川での暮らしが始まりました。


転校先の梼原尋常小学校は児童が多く、一学年に40〜50人はいたと言います。鉛筆や紙が自由に手に入らなかった時代。今の小学校とは違い、机に座って書き物をするより、麦刈りや野良仕事など屋外での「勉強の時間」が多かったと記憶しています。放課後になっても、辰子さん自身が「もらわれ子は大変よ」というように、養父はとても厳しく当時は友達と遊ぶことも自由にならなかったと言います。遊びといえば一人で百人一首を覚えること。今でも、上の句を聞けば下の句がすぐに口を突いてでてきます。

 

津野町高野野越の生家にて(母・緑さんに抱えられた辰子さん)
津野町高野野越の生家にて(母・緑さんに抱えられた辰子さん)

身体で覚えた農作業

小学校を卒業後、辰子さんは進学せずに、家の農業の手伝いを選びました。しかし、当時を振り返りながら、「子供には並大抵の仕事では無かった」と話します。例えば「麦を植える」と一言で言っても、ミツグワと呼ぶ畑用鍬を使い「畝打ち」(うねうち)をするなど、作物によって耕し方も違います。「麦は踏んで育てる」という言葉がありますが、茎を折らないよう足をハの字にして根を踏むなど、言うは易く行うは難しです。辰子さんは養母や周囲の大人に教わりながら一つひとつ身体で覚えていきました。麦のほか、キビ、畑稲(はたいね)、大豆、小豆などを自家用とし、田んぼで作るお米(水稲)はお金に換えました。ご馳走といえば、家で飼っていたウサギ、鶏の肉でした。


夜になっても気も身体も床につくまで休まることはありません。豆をそぞる(筆者注釈:収穫した豆を盆に入れて形の綺麗なものを選別すること)、わら草履を編む。「女は鴨居を拭け」と言われれば、台にのって手を思いっきり伸ばして鴨居に付いた煤を拭きます。このような「よーなべ」(夜なべ)仕事がいくつもありました。汚れをさっと取る程度の「あらおとし」と呼ばれていた洗濯も夜でした。洗剤には、ザルにシュロを敷いて、「アク」(筆者注釈:薪の灰)を漉した茶色い汁を使いました。特に樫の木の「アク」は、よく汚れが落ちたと話します。

写真は、当時、辰子さんが住んでいた自宅。左手前にあるのがトイレです。樽屋さんに頼んでこしらえた大きな樽を埋め込んで、家族が用を足しました。そこに牛のこ肥(筆者注釈:糞)だけを藁とより分けて、樽に入れます。これを素手で作業するのも辰子さんの仕事でした。特に麦の栽培には多くの肥えが必要で、伊藤家では「肥を買っていた」と言います。朝、家では女がお茶を入れました。その間、男は「えぶり」と呼ばれる板の付いた長い竹竿で樽桶を毎日混ぜて、発酵させます。発酵した匂いと湯気は目が回るほど怖かったと言います。

風呂も今と違い、1週間から10日に一回程度しか入ることが出来ませんでした。竹どいで川から池に引いた水を風呂釜に運び、薪で湧かします。薪拾いも辰子さんの仕事の一つだったと言います。風呂に入る順番も決まっていました。まず父親が入ります。続いて祖母、そして辰子さんは一番最後の残り風呂でした。

辰子さんから見た養父・伊藤彦一(ひこいち)さんは「金縁めがねをかけて、桐の柾下駄をはいてコッツコッツと歩く」躾に厳しい人でした。なかなか「お父ちゃん」と呼べず、風呂の薪をくべながら「お父ちゃん、火加減はいかがですか」と初めて「お父ちゃん」と呼ぶことが出来たと言います。この時以降、養父を「お父ちゃん」、養母・豊(とよ)さんを「お母ちゃん」と呼ぶことが出来るようになったといいます。

 

伊藤家の養女として貰われた家(左手前が厠、左奥が牛小屋、右が主屋)
伊藤家の養女として貰われた家(左手前が厠、左奥が牛小屋、右が主屋)

思い出の烏帽子山

大変な農作業の中でも、一番難儀なかった(筆者注釈:難儀だった)のが、「烏帽子山のてっぺんにあがっての草刈り」だったと話します。烏帽子山は、辰子さんの住む太郎川集落の北側にあり、標高約1,000mの山頂には草山が広がっていました。かつて太夫さんのかぶる烏帽子に似た大きな岩があったことからそう言われていたそうです。


初めて烏帽子山の草刈りに参加したのは、辰子さんが12〜13歳の秋のことでした。草刈りに参加した同年代の女の子は、辰子さん一人だったと言います。夜明け前、夜星が見える早朝に松明を持って「道と鼻がくっつくほどさがしい道(筆者注釈:急な坂道)」を母と日雇いの男衆さん2〜3人と連れ立って烏帽子山に登りました。手には草刈りの七つ道具である数種類の鎌と三種類の砥石(荒砥石、中砥石、こばつけ砥石)、わら草履が握られています。朝日が徐々に差し込むと、秋の七草(注1)が見え、虫の音が耳元から聞こえてきます。この光景を味わえたのは、「梼原町に住む90歳代でも私一人ではないかと、今では自分の一番の宝物」と誇らしく語ります。

さて朝日が昇ると、あちらこちらで一斉に草刈りが始まります。同じ場所で地道に草を刈る人、良いところの草を求めてあっちへ行ったりこっちへ行ったり移動する「より刈り」をする人、中には夜中のうちに「なぐり刈り」して自分の刈る範囲を守る人もいました。草を刈る音が周囲の山々にこだましたと言います。

 

辰子さんは大人に負けまいと必死になって草を刈りました。茅を5なぐり(筆者注釈:5回たたき刈ること)で一束、15束で一つの草畔(くさぐろ)が出来ます。辰子さんは一日で15畔つくり、「あのこまい身体で15畔とは」と周囲の大人達を驚かせたと言います。当時を振り返り、「畔をたくさん作ろうとすると、一束の量が少なくなるの」と笑います。烏帽子山での草刈りは、約1週間続き、毎日自宅から通いました。

一束の茅。これが15束で一つの草畔になる(梼原町立歴史民俗資料館)
一束の茅。これが15束で一つの草畔になる(梼原町立歴史民俗資料館)

山頂から太郎川集落を繋ぐ「ジャンジャン」

梼原町の寒い冬を越し、春になると昨年秋に作った草畔を里まで運び出します。当地で「ジャンジャン」と呼ぶワイヤーを張り、烏帽子山の山頂から太郎川集落まで三カ所の経由地(これを駅と呼んだ)を経て運び出します。この作業も太郎川集落の人々が総出で行いました。

 

15束でできた畔を3カ所ほど縄で縛り、滑車に架けるのも大仕事。ワイヤーが切れることもたびたびあり、切れたワイヤーをつなぎ合わせるのも一苦労。落ちた滑車を探し出すには一日仕事だったようです。
最後の「駅」からは、カルイコに茅を背負って自宅に運び、そこで畔を作り保管します。大変な思いをしてやっとのことで自宅まで運び出した茅は、「一束も粗末に出来なかった」と言います。

4月末、採草地を維持するための火入れが行われます。火入れは太郎川集落と町の集落とが共同で行います。火入れの3日前頃から私有地等に火が燃え移らないよう10m幅の「火道」を準備します。火入れ当日は、風が止むのを待って一本のマッチの火が全山を焼き尽くします。辰子さんも大人に混じって檜の枝を束ねた「火打ち柴」で焼けた草地を叩いて消火します。火は完全に消さないと大変なことになってしまうと、辰子さんは一生懸命に山頂から下りながら火打ち柴で地面を叩き続けたそうです。


30歳になった頃、一度だけ火入れ後の烏帽子山に山菜採りに登りました。山頂で目にしたのは、期待に反して痩せた、小さなワラビやゼンマイでした。家に帰ってもアク抜きなどの作業が大変です。その日以降、山菜を採るために烏帽子山へ登ることは無かったと言います。

 

烏帽子山を背景にして(中央が烏帽子山)
烏帽子山を背景にして(中央が烏帽子山)

18歳の誕生日にした一大決心

 

昭和24年(1949年)4月、18歳を迎えた辰子さん。誕生日といってもプレゼントやご馳走があるわけではありません。そこで自分の誕生日に一大決心をしました。辰子さんは、自分の生きてきた18年間の記念を何か形に残そうと考えたのです。

夜、自宅の裏手にある一番痩せたコンニャク畑を選び、そこに杉の苗木を植えたのです。「田畑には杉や檜を植えてはならん」と言われていた時代。親にだまって自分の意思で杉を植えました。当時、自宅の土地の一部を高知県の毛苗(けなえ)生産に貸し出しており、そこの捨て苗を前もって集めていました。集めた苗は50本ほどになっており、それを全て植えました。

なぜ夜に植えたのですかと伺うと、「それは隠れてですわね」といたずらっ子な表情を覗かせます。


しかし養父母はわかっていました。夜に苗を植えた翌朝、母親から「我がうちじゃ言っても、世間の人に恥ずかしいからそれはやめろ」と厳しく叱られました。土地を持たない百姓からみたら、世間体が悪いと言うことからだったようです。
「それでも大きくなりましたよ」と辰子さんは話します。その表情は、とても誇らしげに見えました。

18歳の誕生日に植えた杉林
18歳の誕生日に植えた杉林

注1▷秋の七草とは、ハギ、ススキ、クズ、ナデシコ、オミナエシ、フジバカマ、キキョウの七つの草花です。

 

 

 

 

 


インタビューを終えて


伊藤辰子さんに初めてご挨拶させていただいたのは、令和4年(2022年)10月のことでした。同月に一回目のインタビューを終えましたが、まだまだお話を伺いたいと無理を言って翌年2月に二回目のインタビューを受けて頂きました。辰子さんの口癖は「自分であたっているからね」という言葉です。人から聞いた話では無く、辰子さん自身が身をもって体験してきた記憶、という意味です。辰子さん自身が「あたってきた」からこそ語れる、山の記憶を私たちに教えてくれました。本当にありがとうございました。
この後のドラマチックな物語を読みたい方は、ぜひ、梼原町太郎川にある伊藤さんが経営されている「民宿 友禅」に宿泊し、伊藤辰子自叙伝(2012)『天地一変』を手に取ってみてください。


【構成/赤池慎吾・岩佐光広・増田和也・佐竹泰和】