中芸みんなの日本遺産〜「サブストーリー」コレクション〜

魚梁瀬(やなせ)林業を支えた

(そま)という仕事

 

山田やまだ 英忠ひでたださん


◆ ご紹介 ◆

山田さんは、昭和10年(1935年)生まれの81歳(インタビュー当時)。小柄ながら、ガッシリと引き締まった体格をしている。力と技を必要とする杣(注1)という仕事を長年やってきたことを伺わせる体躯である。山田さんは北川村出身で、地元の小学校と中学校に片道3kmの森林鉄道軌道を歩いて通い、中学卒業と同時に杣として働くようになった。その後、14年間を杣として伐採作業に従事し、30代後半から貯木場に勤務され退職を迎えた。退職後は、ゆず農家として、いまも北川村に住んでいる。とても気さくな性格で、地元の子供達を対象にした郷土学習の講師も務めている。

 

聞き取り 平成27年(2015年)12月


15歳で杣に弟子入り

 山田さんが杣の世界に入ったのは、中学3年生のことだったという。「中学3年夏休みの時に父親の手伝いで魚梁瀬営林署大谷事業所に入り、渋抜きをやった。渋抜きは杉を山手に返して(筆者注釈:伐倒)、皮を剥いで色を良くするため。その時はじめてやった。渋抜きじゃ言うんはね、えー大体スギの木だけですけんどね、渋抜きするのは。皮の剥げる時期は、3月の彼岸から9月の彼岸までね(注2)。剥いだ木の切り株の広さで、渋抜きのお金を貰う」。

 

 杣の技術は、既に杣として働いている父親・秋美(あきみ)さんのもとに弟子入りすることで習得していった。当時、魚梁瀬国有林では、直営生産が行われており、秋美さんは魚梁瀬営林署の杣として伐木作業に従事していた。この父親のもとに山田さんは弟子入りした。

 

 弟子入りした最初の頃は、杣の仕事全部、杉皮を剥ぐ渋抜きや雑用などもこなし、少しずついろいろな仕事を段階的に実践しながら覚えていったという。

 

「杣は一人仕事で共同仕事はない」。昭和27年(1952年)に父親が奈半利(なはり)営林署西谷事業所に転勤になった際、山田さんもそこに一緒に入った。山田さんもまた、弟子入りしてから4年程で独立し、その後は一人で作業に従事した。山田さんが奈半利営林署の杣として伐木作業に従事していたのは昭和27年(1952年)から昭和41年(1966年)までの14年間である。

樹齢520年の栂(つが)の伐採(写真左が山田さん)
樹齢520年の栂(つが)の伐採(写真左が山田さん)

 伐採現場は、自宅から2時間ほどかかる場所にあった。そのため、現場にある杣小屋に住み込んで働き、「土日があったかわからんが、月曜に行って土曜に帰った」という生活を送っていた。「家は五反百姓(注3)だったので、農業もしなければならなかった」からである。

 

 給与については、日給を基本とする一般作業や造林作業と比べて「杣は出来高だから、そらその人らから言うたら2倍から2倍半はもらっていた。腕立ち立たんにもよるけんどね、そればあの給料は」であった。

 

 こうしたことを振り返りながら、山田さんは杣という仕事について次のように述べた。

「私もうこらこの仕事一生やってもええと思った。一人仕事でしょお。「よっしゃあ今日はやっちょいて」と思うて、馬力掛けてやったら。出来高じゃから、ねえ。人とは関係ないきにねえ。ほんで自分でやって。鳥の声が聴こえてくるか、たまに飛行機が通るか。静かな山でごしごしとやってね。……で自分が、「あー今日はサボっちゃろ」と思うたら、仕事せんでもえいから(笑)。そういうものが杣の仕事でしたからねえ」。

 

大木を伐採した四尺五寸の鋸

 杣が伐採のために使う鋸や手斧等の道具は自前のもので、自分で手入れして使っていた。山田さんの場合、「常時使う鋸は三尺五寸(約105cm)というがが、一番」だった。最も大きい鋸は、柄の上部から先端までの長さが四尺五寸(138cm)のものであった(筆者注釈:歯道は115cm)。「四尺五寸で、切り株が三畳ばの木は伐っちゅうからねえ。畳三枚敷きの木を。その四尺五寸の鋸で。三畳の木を伐るいうたら、どればぁかな。何かわからんねー。3時間もかかったかな」。

四尺五寸の鋸
四尺五寸の鋸

チェーンソーの導入で変わった森の匂い

 山田さんによると、当地にチェンソーが導入されたのは昭和34年(1959年)のことである。その当時の状況を振り返って、山田さんは次のように述べている。

 

「チェンソーは一気に入ってきたね。営林署が買うて与えるからね。研修があってね。昭和35年(1960年)に窪川(くぼかわ)の松葉川(まつばがわ)事業所でチェンソーの研修に参加した。高知営林局の各事業所から何十人も研修に来とった。当時はアメリカのマッカラーゆうチェンソーでね、重かった(筆者注釈:重量約10kg)。エンジン掛けて、切り台(切り株)の上へ置いちょいたら、ぶんぶんぶんぶん動き回る。そんな機械やったからねえ。それで天然林を伐るがじゃから、そのバーの長さも長いしね」。

 

 

 天然林資源が枯渇してきた昭和41年(1966年)、「体力的には脂の乗った盛り」だったという30代後半に山田さんは「山を下りた」。最後に、杣として伐採に従事した14年間を振り返り、山田さんはチェンソー導入について次のように述べた。

 

「もう嫌と思うたねえ。あのーけたたましい音がね。それからあの臭いが。ガソリンの臭いがねえ、もうほんーまに。こののどかな山へ、こんなもん。(笑)それこそもう一つもしんどう無い、ウケキリ(注4)じゃいうたち、ぶうぶういうたら終わりにね。もうこれ嫌じゃなあと思うたね。うん、どこもかしこもバーバーバーバー鳴り止めんばなりもんね」。

 

 

 

注1▷杣とは、主に伐採と造材(4m、3m、2mに玉切り)を専業とする職業集団を指す。伐採された木材を運搬する人々は「日雇(ひよう)」と呼ばれ、作業種によって区別されていた。

注2実際に渋抜き作業に従事したのは、5月から6月の最も樹皮が剥ぎやすい期間である。

注3「五反百姓」とは、他人を雇用するほど広くなく、家族労働で手が足りるほどの農地という意味。

注4伐採する木の根元に入れる切り込み(受け口)のこと。

 


インタビューを終えて


中世・長宗我部(ちょうそかべ)の時代から伐採が行われてきた魚梁瀬杉。平成29年(2017年)に資源の減少や木材価格の低迷により最後の伐採が行われ、平成30年(2018年)以降の伐採と木材供給が休止された。数百年にわたり当地の経済を潤してきた魚梁瀬杉を伐採していたのが、山田さんをはじめとする杣たちである。鋸からチェーンソーという林業の技術変革を、現場にいた杣がどのように感じたのかを知る貴重な語りである。

 

【構成/赤池慎吾・岩佐光広】