梼原町ライフヒストリー集

牛と人がつくる
東川の景色

 

 

 

白石(しらいし) 彦三郎(ひこさぶろう) さん

 


■ ご紹介 ■


白石彦三郎さんは、大正15年(1926年)生まれの95歳。彦三郎さんが生まれ育った梼原町四万川区東川(ひがしがわ)のご自宅でインタビューをさせて頂きました。彦三郎さんは、今では梼原町で数少なくなった土佐赤牛の生産農家です。牛の敷料に使う茅は、今でも彦三郎さんが自分で刈り、畔(くろ)を作って乾燥させています。彦三郎さんが生まれてからの95年間、山の景観も大きく変わりました。彦三郎さんたちがどのようにして暮らしていたのかを通して、かつて東川に広がっていた景色を私たちに見せて頂きました。


聞き取り 令和4年(2022年)10月

 


四万川区東川に移り住んで

 

白石家が梼原町四万川区東川に住み始めたのは、祖父の時代からです。「名前も顔もわからない」と言う祖父が、災害で葉山村(現津野町白石地区)を追われ「天秤棒ひとつで家を出て、途中で働いては(お金を稼ぎ)」この東川に居を構えたと、振り返ります。

父・白石徳太郎(とくたろう)さんは、彦三郎さんが4歳の時に亡くなり、残された母・久(ひさ)さんと子供達。とにかく「食うものをつくらないかん」という時代、水田は無く、人に借りた畑でキビやサツマイモをつくり、山は伐畑(きりはた)をして暮らしを支えました。


「学校(筆者注釈:尋常小学校)は義務じゃから行かせてもらったけど、勉強せえとは一度も言われなかった」という幼少時代は、家の手伝いが優先でした。彦三郎さんは、義務教育の尋常小学校を終えると、高等小学校に進学することなく、百姓に。当時、同級生14〜15名のうち、彦三郎さんと同じように高等小学校に進学しなかった友人が5〜6名はいたと言います。

 

今でも畑で栽培しているキビ(写真は、ご長男の配偶者である白石さかえさん)
今でも畑で栽培しているキビ(写真は、ご長男の配偶者である白石さかえさん)

戦後、彦三郎さんは天然林の伐採作業に従事しました。棒にかぎ爪の付いたトビ一丁で山に入り、両手で抱えきれないほど太い丸太をトビひとつで集材し、大きな丸太は牛に引かせ、賃金を稼ぎました。集めた丸太は、発動機による移動製材で角材となり、トラックに積まれ運ばれたと話します。終戦直後、梼原町では、彦三郎さんと同じく山に入る人が多かったとも。「今頃の若い者に言ってもわからんと思うが」と前置きし、当時、東川には荷台を付けた馬車が走っていたという時代でした。


農地改革で山の傾斜に階段のように段々になっている水田を少し分けてもらいました。一反(筆者注釈:約10アール)の広さに20数段の小さな水田だったと言います。少しでも一枚の水田を広くするため、休みの日や時間があるときに少しずつ掘りひろげ、9つの段まで広げました。

それでも家族が食べていくのに十分な食べ物をつくることは出来ず、白石家では他人の山を借りて、雑木を伐採したあとに火入れをして、ソバや豆を蒔いて食べ物を得ました。このような山の利用を梼原町では「伐畑」(きりはた)と呼んでいます。

二人の兄が戦死したため、彦三郎さんが家督を継ぎ、昭和22年(1947年)、二十歳となった彦三郎さんは、四万川区坂本川(さかもとがわ)出身の千里(ちさと)さんと結婚し、所帯を構えることに。
田畑は少なく、「現金を稼がなければ生活ができなかった」と言い、稼ぎの中でも炭焼きは最も重要な部分を占めていました。昭和25年(1950年)から昭和30年代半ば頃まで、炭の売上げのいくらかを山主に支払う形で、共同で炭焼きの権利を買いました。
炭焼きの稼ぎは日雇労働の「日雇」(ひやく)より良かったと言います。炭焼きはひと月に1回ほど、ひとつの釜で30ほどの炭ダス(筆者注釈:炭俵)を焼き、これを一年中、年間で10回程度炭を出しました。「まー結局、山で生活しおった言うことやね」と当時をしみじみ振り返ります。

かつて東川の山は草地だったという
かつて東川の山は草地だったという

「ジャンジャン」で運んだ草

 

その昔、牛は水田の荒越しから代掻きなど農業に必要不可欠でした。どの農家にも必ず一頭は牛がいた時代。裕福な家では親牛を繁殖させ子牛をとっていましたが、彦三郎さんの家では「かいだし」と呼ばれる飼養をして、博労(ばくろう)を介して毎年牛を交換せざるを得ませんでした。


そのため、毎年新たな牛に農業を教えねばならず、「覚えの良い牛も、そうじゃ無い牛もいて」苦労したと話します。牛の飼養に必要なのは飼料となる草です。当時は藁も十分に無く、山の草を刈って与えていました。

かつて家の前の山は、一面の草場だったとか。山には「ジャンジャン」と呼ぶ金吊るが張られ、乾燥した茅に滑車を付けて山から集落まで運びました。

 

ひとつだけ残っていた滑車
ひとつだけ残っていた滑車

牛と人がつくる山里の景色

 

現在、白石家は梼原町で数少なくなった土佐赤牛の生産農家です。多い時には、5頭の牝牛を繁殖させ、7〜8頭の子牛を飼育していました。子牛は生まれてから約7カ月間肥育し、出荷します。春から秋にかけて、親牛は四国山地のカルストに放牧させ、冬は東川の牛舎で育てます。牛舎の敷料に使う草は、彦三郎さんが刈り、乾燥させた茅を使い、堆肥は肥料として、畑でリサイクルされます。


95歳となった現在も、彦三郎さんは敷料のための茅を刈っています。最近まで、近所から依頼を受けて他所の茅もかっていました。「いまでは、敷料のために茅を刈っているのはここだけ」になりました。

インタビューに訪れた時、牛舎には子牛が一頭だけ残っていました。この秋に出荷をむかえると、牛舎は空になります。

牛がいなくなったら草刈りどうするのかと素朴な疑問をぶつけると、「もー、とらんね。やめないかん。今年はちーと刈ったけど、来年は刈らんかもしれん」と彦三郎さんは答えます。梼原町で何百年と続いてきた牛と人がつくる景色が、いま終わろうとしています。

牛と人がつくる茅のある景観
牛と人がつくる茅のある景観

インタビューを終えて


インタビュー後、庭先で話をしていると、思い出したように家の裏手から「滑車」を持ってきてくれました。その足取りは、とても95歳とは思えないほど軽やかでした。今年で最後となるであろう草刈りについて語る彦三郎さんは、寂しそうでもあり、ここまでやり遂げたという達成感に満ちた表情をしていたのが印象に残りました。牛と人がつくり出す東川の景色を若い世代に見せたいと思い、数日後に学生とご自宅を再訪させて頂きました。その時、なんと、彦三郎さんは草刈り機を持って外出されており、思わず笑みがこぼれました。


【構成/赤池慎吾・増田和也】