梼原町ライフヒストリー集

ヤキヤマが創り出した
村里の色彩

 

 長山ながやま) 幸榮(ゆきえ) さん


■ ご紹介 ■


長山幸榮さんは、昭和4年(1929年)生まれの92歳(インタビュー当時)。私たち3人からの質問に、とても丁寧にハキハキと答える姿は、一般的な年齢のイメージとはほど遠いものでした。梼原町西区上成(ゆすはらちょうにしくうわなろ)の川栗屋(かわぐりや)で過ごした幼少期は、8人兄弟の長女として子守や山仕事など毎日が必死に働く日々でした。暮らしの中に当たり前にあった「山」との繋がりを、食べ物を通して色鮮やかにお話し頂きました。


聞き取り 令和3年(2021年)10月


「ヤキヤマ」(焼き畑)のあった暮らし

幸榮さんの父・森山牛助(もりやまうしのすけ)さんは明治20年代生まれ。働いていたのは、東向(こちむき)にあった「銅山」(注1)でした。毎朝5時に家を出て、帰宅は夜遅くという生活をしていました。その生活は幸榮さんが小学校にあがるまで続き、のちに母・徳美(とくみ)さんから「幸榮はお父さんの顔を知らだった」と聞かされました。


「銅山」が閉鎖され、幸榮さんのお父さんは仕事を失い、当時、周辺には現金収入を得られる賃労働はほとんどありませんでした。幸榮さんの記憶では、父は肥料となる下肥(大便小便)を運ぶ「肥汲み」や「肥担い」をして一日50銭の現金収入を得ていたと言います。
所有する少しばかりの水田は九十九曲峠(注2)の山裾にあり、冷水のため穂が出ても実が入らないことがしばしば。このため籾で数俵しかとれず、主食であるべきお米を確保することには苦労しました。そんな幸榮さん一家の生計を支えたのが周囲にあった「山」でした。


「山を開いては、焼いて、蕎麦を播いたり、山麦を播いたり、キビとかね。それにミツマタ」(注3)と、一家の食料になるものは何でも栽培し、収穫につなげました。なかでもミツマタ(注4)は、貴重な収入源でした。ミツマタは植栽から収穫まで3年を要します。そのため、毎年収穫できるよう工夫を凝らして植え付けたそうです。収穫時期には、庭先に棒をたてて、ミツマタの皮を剥ぎ、それを稲木(いなき)に架けて乾燥させます。それを集めて「サンガンノマルケ」(注5)にして、父親がオイコに担いで売りに行きました。


 戦時中は山にあるさまざまな資源が供出の対象とされました。「ハド(カラムシ)(注6)を採ってださんといかん。春に山を焼くとワラビナ(ワラビ)が出るでしょ。日曜日は兄弟みんなで、隣の人らも皆連れそってね。大きな袋に担いで、家に帰ったらそれを藁で編んで乾してね。その他にも、父がサツマイモに藁が通る穴を空けて架けて乾してね。自分らが子供の頃はそれを夜にやらんといかんでしょ。眠くて寒くてね」と一家総出で作業をした当時を懐かしみます。

幸榮さんが生まれ育った川栗屋
幸榮さんが生まれ育った川栗屋

キビが彩った梼原の風景とは

水田が少ない梼原町の山間地では、キビが主食でした。「お祭りでも、朝はキビのご飯を食べて、昼からは白いご飯をもろうて食べる。次の日の弁当はキビのご飯を持っていく」と言うように、白米はお祭りの昼しか食べることができなかった貴重品でした。「うちらはお米はありもせん。供出もせんといかん。ビを二升炊くときは、米を2合入れてね。だから綺麗な真っ赤色(笑)」と当時の食卓を振り返ります。現在でも梼原町では白米に少量のキビをちらしたキビご飯が食べられていますが、当時の様子とはだいぶ違ったようです。

軒先に吊されたキビ(撮影地:梼原町)
軒先に吊されたキビ(撮影地:梼原町)

「自分らが学校に行っている昼間。親が大きなむしろを二重に縫って袋にして、それに(キビを)一杯にしてオイコでかるうで帰ってきて、家の板の間に移して。晩はキビはぎ(皮剥)でしょ。眠いから。母とおばあさんと、弟と眠りながらきれいにキビはぎをしてね。それを父が山のくず葛(かずら)を引いてきてね。キビをそれで互いに稲木(いなき)に縛って。皆のところがね、虹が立ったように。あの家は何十間架けているとかね。何段くらい架けちょったかな、6段か7段か。秋は綺麗ながったですよ。百姓の家は、キビでね。虹が立ったようで。」と、キビが主食であった時代の色鮮やかな梼原の景色を教えてくれました。

ヤキヤマが暮らしを支えていた時代の話しはまだ続きます。ヤキヤマで栽培された山麦、蕎麦は共有する水車で挽いていました。挽く音は辺りを包みこんでいました。
「上成に水車いうてね。ミセヤ(?)と川栗屋に一つずつ水車があって。組の人が毎日交代で、大麦を付いたり、小麦を付いたりしてね。組に十数軒あるから、十何日に一回しか自分の家の番が回ってこない。一カ月に2回くらいしか使えない。」と、説明してくれました。

稲木に架けたキビ(昭和40年の梼原町四万川) 出典:田辺寿男『山間 高知の民俗写真2』高知市民図書館
稲木に架けたキビ(昭和40年の梼原町四万川) 出典:田辺寿男『山間 高知の民俗写真2』高知市民図書館

「はじめての高知市は外国に行く気がしたね

高等小学校を一年で出た幸榮さんは、実家の手伝いをしながら梼原町で暮らしていました。現金収入を得る機会は、近所から「田の草ほーってくれんか」と言われたときの草取りのアルバイト。「一日中、一生懸命汗をかいて20円しかならない。イノシシの絵が描いてある10円札でね」と物価が上昇する時代でしたが、草取りの収入は昔のままだったそうです。幸榮さんが18歳になった春、叔父に勧められて従姉妹と一緒に高知市旭町にある製糸工場で働く機会を得ました。

実家を出る日がきました。実家のある上成を朝5時に出て、梼原町中心部まで歩き、7時のバスに乗り海沿いの須崎駅へ。須崎駅から汽車に乗り旭駅に着いたのは夜7時をまわっていました。初めて梼原町を出たときの心境を「外国に行く気がしたね。家を離れるのは悲しかった。もし帰りたいときはどうしたら帰れるかな。一人で帰れるもんかね」と不安がよぎったことを昨日のことのように思い出しながら語ってくれました。


高知市では半年間働きました。幸榮さんにとってとても濃密な時代、まさに青春の1ページだったようです。上町五丁目にあった闇市で買った5円の蒸しパンを従姉妹と分けあったこと、門限を過ぎていたため門の下をくぐって帰宅したことなど、厳しい仕事の中で従姉妹と過ごした時間は忘れられません。


製糸工場で忙しく働く中、ふとしたときに故郷の梼原町を思い出す出来事がありました。理由はある日、会社から提供された食事に「ワラビナ」が出てきたからです。故郷の山で家族と収穫し、眠い目をこすりながら藁に編んで乾かしたあの「ワラビナ」。「ワラビナ」を前にして、「あー、こんな所に送りよったもんじゃなと。それが硬いの。生干しだから(笑)」と、幸榮さんは笑います。

昭和23年(1948年)1月、数え年で20歳になったとき、梼原町四万川区富永にお住まいだったご主人と結婚しました。嫁入り道具についてお伺いすると、「ないない。なんちゃーない(笑)。着替えと、こんまい鏡と櫛と風呂敷一つ。自分らの歳の人は皆ね、お化粧もしたことない、振り袖もない、帯をして歩いたこともないのよ」と楽しそうに語ります。嫁入り後は、郵便局で働くご主人を支え、義理の父母と畑仕事や山仕事などをしながら日々、暮らしました。

注1▷大正7(1918)年、東向鉱山が試掘。同年矢野鉱業が開業、昭和2(1927)年に池辺春光氏の所有となる。昭和3〜12年、約2,310トンの出鉱。鋼種は、金銀銅硫黄鉄。昭和16(1941)年に日本鉱業との共同経営。過半数は社宅、約3割が通いであった。[梼原町史 pp.716-721]
注2▷九十九曲峠は愛媛県西予市城川町と高知県高岡郡檮原町との間に位置する標高860mの峠。
注3▷「ヤキヤマ」とは、焼き畑の意味。山林を伐採後、火入れをして、蕎麦や山麦、キビ、ミツマタを栽培した。
注4▷ミツマタ(三椏)は、ジンチョウゲ科のミツマタ属に属する落葉性の低木で、樹皮は紙幣や和紙の原料となる。
注5▷「サンガン」は三貫(11.25kg)、「マルケ」は束の意。乾燥したミツマタを3貫束で出荷した。
注6▷カラムシは茎を蒸して表面をそぎ取り、繊維として利用された。

 

 

 

 


インタビューを終えて


ヤキヤマが生活を支えていた時代のお話で、「虹が立ったよう」や「綺麗な真っ赤色」といった表現が印象に残りました。これまで私は、当時の暮らしをモノクロ写真でイメージしていました。幸榮さんの語りには、写真には残らない、その時代を生きた人にしか見ることができなかった色鮮やかな梼原の風景があり、私の目の前にも鮮やかな色が蘇りました。今も富永にお住まいの幸榮さんが続けていることがあります。それは梼原町内に今も残る「茶堂」(ちゃどう)での御接待です。梼原町には、地域の寄り合いや旅人をもてなす茶堂がいくつも残っています。幸榮さんがお住まいの富永では、毎年8月になると各家が毎朝順番にお茶出しを行っています。来夏には、富永の茶堂でお茶を飲みながら、集落の皆さんとキビで彩られた梼原の風景についてお話を伺ってみたいと思います。


【構成/赤池慎吾・岩佐光広・増田和也】