梼原町ライフヒストリー集

源一じいさんが

伝えたかった山仕事

中岡(なかおか) 幹雄(みきお) さん


■ ご紹介 ■


中岡幹雄さんは、昭和20年(1945年)生まれの78歳。梼原町四万川区茶や谷(ちゃやだに)に生まれ育ちました。家の背後には深緑の杉林が広がり、軒先には手入れの行き届いた田畑が広がっています。周囲の山々が中岡さんの仕事場であり、遊び場でもありました。近所の“悪ガキ”達と一緒に野山を駆け巡った思い出を語っていただきました。

 


聞き取り 令和5年(2023年)6月 /
7月

 

 


「ヤブ焼き」で山火事

 中岡幹雄さんは、父・中岡忠次郎と母・綾子さんの長男として、四万川区茶や谷に生まれました。中岡家には水田3反5畝、畑2反、山が7町歩ほどあり、父は農協に勤務しながら、休みの日に農作業をして一家を支えました。父が農作業をする姿を見て、「自分も手伝わないかん」と子供ながらに感じていたと言います。


 今では杉林がひろがる茶や谷ですが、幹雄さんが中学生の頃まで、山では食料となるソバやキビをつくる「ヤブ焼き」があちらこちらで行われていました。茶や谷では、夏のまだ暑い日、お盆前までに山に火入れをします。その後、ハトに食べられないよう鍬で土をならしながらソバの実(種)を蒔いたと言います。10月頃になると、収穫したソバを稲木に掛けて干します。掛け方は稲とは違い、斜めに段々に干しました。


 中岡家では、年越しに母・綾子さんがソバを打ち、家族そろって新年を迎えるのが恒例となっていました。ヤブ焼きの灰がソバの成長に良いと、茶や谷では多くの人がソバを作っていたと言います。幹雄さんが二十歳になる前、昭和30年代後半には杉の植林がはじまり、ヤブ焼きは姿を消していきました。

 

昭和20年代の中岡家
昭和20年代の中岡家

 幹雄さんが、今でも鮮明に覚えているヤブ焼きの記憶があります。それは祖父・中岡源一郎さんと一緒にヤブ焼きをした小学校6年生の時のこと。昭和32年(1957年)、夏のある日曜日のことでした。

 幹雄さんは祖父と一緒に山に入りました。その日は、一日に3カ所のヤブ焼きを計画していました。一カ所目のヤブ焼きが終わり、次の場所に移る時、幹雄さんが消火の確認で「怖いことないかい」と祖父に確認しました。心のどこかで嫌な予感があったのでしょう。しかし、そんな幹雄さんの不安な気持ちをかき消すように、「怖いことあるか。次いくぞ」という言葉が祖父から返ってきました。その時のことを今でも忘れられずに鮮明に覚えていると話します。

 しかし幹雄さんの嫌な予感は的中し、残っていた火は周辺の山にまで燃え広がりました。最後には消防を呼び、なんとか鎮火したと言います。他所の山林にも延焼したため、杉苗を購入し植え直しに行ったといいます。この「事件」から60年が経った今でも、自宅で火をたくと近所から「よー火をたくね。孫だから似てるね」とからかわれると、笑って教えてくれました。

小学校卒業時の幹雄さん(中段右から5番目)
小学校卒業時の幹雄さん(中段右から5番目)

「カナヒゴ」の思い出

 山は食料だけでなく、そこに生えている「草」も生活に必需の資源でした。中岡家には、田畑の肥料、牛の餌、屋根を葺くための茅を刈る「茅場」が3カ所ありました。肥料や飼料にする茅を「家茅」(いえがや)と呼びました。
茶や谷では、毎年どこかで屋根葺きが行われ、使用される大量の茅は各家から持ち寄っていました。屋根を葺くための茅は「講茅(こうがや)」と呼ばれていました。当時はこの講に36軒が入っていたが、次第に瓦屋根に変わると茅講は無くなっていったと言います。

 茅場のほかに中岡さんが「採草地」と呼ぶ集落共有の草刈り場が、神の山集落の上にありました。毎年9月1日が、口開け(解禁日)です。夜明け前、祖父、祖母、父、母そして幹雄さんら、一家総出で山に登ります。夜が明けたら、いっせいに草刈りが始まります。
一日目、幹雄さんは夜明けから暗くなるまで、休むことなく鎌で草を刈りました。二日目には、前日に刈った草を束ね畔(くろ)にします。幹雄さんは20〜30ほど畔を作ったと言います。その後、畔は採草地で一カ月ほど乾かします。

 こうして刈り取られた大量の草を運ぶために使われていたのが「カナヒゴ」と呼ばれるものです。出発地の採草地や茅場から到着地の自宅近くまで、数百メートルから数十メートルごとに経由地をもうけて、「カナヒゴ」(ワイヤー)を掛け、山頂から山裾まで滑車に吊して運搬しました。梼原では「ジャンジャン」や「カナヅル」などとも呼ばれています。

「カナヒゴ」の終着地から自宅までは、荷を背負って運びました。「カナヒゴ」で降ろす作業は家族で行い、人がいない場合は人を雇って作業をしました。「カナヒゴ」は撤去されず、一年中張ったままです。中岡家では、個人で「カナヒゴ」を張り、日常の管理も個人で行っていました。

「カナヒゴ」に滑車を掛けて草を吊り、何度も何度も降ろしたと言います。草が多いときには、滑車が足りなくなり、経由地まで山道を歩いて取りに行かなければいけません。小学校5年生か6年生の頃、幹雄さんは「少しでも楽をしよう」と二本の生木をロープで結んだ手製の滑車を作り、「カナヒゴ」にぶら下がって降りようと考えました。「カナヒゴ」と地上の距離は数十メートルあります。落ちたら怪我だけではすみません。ぶら下がって降りる途中に親に見つかり、こっぴどく叱られました。ただ、「そんなことを考えたのは茶や谷で俺だけだ」と、少し自慢げに教えてくれました。

カナヒゴにぶら下がった場所を指す幹雄さん
カナヒゴにぶら下がった場所を指す幹雄さん

はじめての山仕事

 中学を卒業した中岡幹雄さんに山仕事を教えてくれたのは、祖父・中岡源一郎さんです。近所から「源一じい」と親しみを込めてそう呼ばれていたそうです。趣味は将棋と狩猟。「毎日、将棋を指して遊んでいた」と振り返ります。狩猟の時期になれば、愛媛県久万高原(くまこうげん)に狩猟仲間と何カ月も泊まり込みでイノシシ、ウサギ、ハクビシン、テンなどを捕まえていたそうです。留守を守る祖母・照さんは難儀した、と話します。

 中学を卒業後、源一郎さんが伐採を請け負っていた山仕事についていきました。現場は本モ谷集落と茶や谷集落の境にあり、大きな杉や檜が生えていました。はじめて山仕事を任された幹雄さんは、源一郎さんをお手本にして、3尺はある大きな鋸を使い、杉や檜を見よう見まねで伐採します。慣れない作業ではありましたが、源一郎さんと20日ほど根気強く毎日通いました。
こうして源一郎さんと一緒に山仕事をしたのは、この時が最初で最後でした。翌年以降、源一郎さんが山に入ることはありませんでした。幹雄さんは今思うと「僕と一緒に行きたかったのか。山仕事を僕に教えたかったんじゃないかな」と振り返ります。

現在の中岡家
現在の中岡家

インタビューを終えて


縁側に座り、手作りの芋餅をご馳走になりながらお話を伺いました。縁側から見える山や畑を指さしながら語る幹雄さんには、ヤブ焼きや茅場の景色が広がっているようでした。幹雄さんの思い出にある風景と、今ここから見える風景は違っていたのだと、はっきりと理解できました。また、幹雄さんの語る思い出の一つひとつに、祖父・源一郎さんが顔を出します。頑固な祖父だったと皆が口を揃えますが、幹雄さんにとって特別な存在であったことが感じ取れました。


【構成/赤池慎吾・増田和也】