中芸みんなの日本遺産〜「サブストーリー」コレクション〜

「父は森林鉄道の運転手」

 

尾﨑おさき 美恵みえさん


◆ ご紹介 ◆

尾﨑さんは、昭和11年(1936年)生まれの81歳(インタビュー当時)。馬路村魚梁瀬(うまじむらやなせ)地区の東川(ひがしがわ)事業所で子供時代を過ごしました。お父さんは森林鉄道の運転手をされていたとのこと。当時、子供達のあこがれの仕事だったとお聞きしました。合宿所から森林鉄道が見える度に、お父さんのことを考えていたようです。

 

聞き取り 平成30年(2018年)10月


寄宿舎から見える機関車を追いかけて

 昭和18年(1943年)に魚梁瀬小学校に入学しました。住んでいた東川事業所から通学することができないため、月曜から土曜日は魚梁瀬にある児童合宿所(以下、合宿所)で暮らしました。当時、尾﨑さんのように合宿所で生活する児童・生徒が100人以上いたそうです。

合宿所の子供ら
合宿所の子供ら

「朝の六時に起きてね、顔洗って、部屋の掃除を皆でしてね。当時は10人ばぁ、一間におったね。朝食にシナ米が出たわよ。朝はおつゆとごま塩。食堂に食事が置いてあってね。いろいろと拵(こしら)えてもらいました。朝昼晩と大きなお鍋でご飯を作るでしょ。お焦げがあるがやき。そのお焦げをもろうて食べた、美味しかった」。

 

 合宿所では、姉と一緒に過ごす時間は少なかったようです。「合宿所おるときはねほら姉妹どうし置いてくれんき。他人と一緒におらないきませんろ。姉(筆者注釈:4歳年上の姉)はいっつも妙に姉妹らしくないように他人と一緒におりましたからね。あたしも姉のことをそんなにあれと思わんけんど今はとても幸せです」。小学校一年生の尾﨑さんにとって、家族と一緒の時間が何より楽しかったようです。「土曜日にガソ(注1)に乗ってお家に帰るの。姉と一緒にね。お父さんとお母さんに会えると思ったらね、嬉しかったです。姉妹で喧嘩はしなかったね」。

 

 尾﨑さんには、合宿所生活での特別な思い出がありました。それは、毎日夕方になると下(しも)(筆者注釈:田野(たの)方面)から上がってくるアレでした。「父が機関車の運転手でしたの。合宿所の川の向こうに機関車が通るでしょ。「あっ、お父さんが運転してる」ってね。走って行きまして。お父ちゃーん、お金ちょうだいってお小遣いをねだってたわよ」。家族と離れて、寄宿舎で暮らしていた尾﨑さんにとって、森林鉄道はお父さんに会える数少ない時間だったようです。こうした合宿所生活は、中学校卒業まで続きました。

森林鉄道
森林鉄道

物資の輸送は森林鉄道からトラックへ

 昭和27年(1952年)に魚梁瀬中学校を卒業された尾﨑さんは、魚梁瀬営林署物資部の東川販売所の補助として仕事を始めました。販売所とは、国有林の林業従事者が住む地域で、営林署が生活物資を販売していました。

魚梁瀬地区
魚梁瀬地区

「お醤油は瓶詰めじゃなくて、樽から吸い上げてね。一升瓶で量り売りしてましたね。品物がどんくらいあったろう、かなりありましたのでね。生のお魚も売りましたよ。1カ月に1回は棚卸(たなおろし)があってね。営林署の職員には自分の番号があって、給料から天引きになる。レジで会計するときは現金やったけんど。1カ月に1回、販売所で買うていただいたものを請求さいで頂だきました。給料で引いていただくように。そういうお仕事をしておりました」。

 

 昭和38年(1963年)、森林鉄道の廃止に伴って、物資の輸送は森林鉄道からトラックへと変わりました。尾﨑さんの目にはどのように映ったのでしょうか。

「そうですね。道ができましたわね。そのときは本当にうんとなんか嬉しいような。道路ができて、車が通るようになったでしょ。そんなに思った。機関車も良かったけど、道路ができて便利でしょ。良かったとは思います」。

 

 

 

注1森林鉄道の機関車のことを「ガソ」(またはガソリン)と呼んでいた。

 


インタビューを終えて


小学校一年生からの合宿所生活は、楽しいことも、家族と会えない寂しいこともあったようです。きっと、森林鉄道の運転手をされていたお父さんも、尾﨑さんに会えることを楽しみにしていたのでは無いかと思います。平成3年(1991年)に退職されるまで、魚梁瀬地区の販売所に勤務されていた尾﨑さんには、魚梁瀬の人々の生活を支える販売所の仕事を教えていただきました。

 

【構成/赤池慎吾】