中芸みんなの日本遺産〜「サブストーリー」コレクション〜

記憶に残る森林鉄道の

「大きな音」

 

 

細川(ほそかわ) 英子(えいこ)さん

 


◆ ご紹介 ◆

細川さんは、昭和9年(1934年)生まれの83歳(インタビュー当時)。長岡郡十市村(とおちむら、現在の南国市)に生まれました。子供時代はお転婆(てんば)だったようです。昭和30年(1955年)、マグロ漁船の乗組員だったご主人と結婚し、奈半利町(なはりちょう)に嫁入りしてきました。奈半利町に響く謎の「大きな音」の正体は、いったい何だったのでしょうか。

 

聞き取り 平成30年(2018年)5月


昭和30年(1955年)、奈半利町に嫁入り

 結婚前、ご主人をマグロ漁船に見送るため、初めて奈半利町を訪ました。「自分が山のほうの生まれやきねー。海は開けちゅうきね。やっぱり気持ちが良かったね。山ばっかり見よって。あの時分はねー、室戸岬もにぎやかだったきね。ほらぁね、活気づいちょったきね」。

 昭和30年(1955年)2月、奈半利町に嫁入りに来ました。かつてマグロ遠洋漁業日本一と言われた室戸市に隣接する奈半利町。ご主人はマグロ遠洋漁船の乗組員で、3カ月に一度しか港に戻りませんでした。「室戸の漁船の乗組員の嫁さんらはね、結構ねぇ開けちょったき、室戸は。遊んだりしよったらしいね。あたしらは、奈半利におるでしょう。漁船の人おらんやかね。見渡してもねー、乗組員の嫁さんはおらんやん。ほんで友達やいうてもね、ないしね」。

 嫁入り先は、奈半利町六本松(ろっぽんまつ)。国有林の貯木場があり、伐採された木材の一大集積地でした。

昭和30年の奈半利の貯木場 出典:高知営林局(1972)『高知営林局史』写真集6
昭和30年の奈半利の貯木場 出典:高知営林局(1972)『高知営林局史』写真集6

 当時は、ずいぶんと賑やかだったようです。「法恩寺跨線橋(ほうおんじこせんきょう)の下をトロッコが走っていてね。大きな丸太を乗せてね。あれがえぇと思うね」。「私は客車(注1)に乗ったことは無いね。材木を運ぶのはよく見たけどね」。「材木が太い木ね。大きな音がしよったきね。トロッコから降ろす音がすごいきね」。

法恩寺跨線橋
法恩寺跨線橋

 昭和38年(1963年)、トロッコから貯木場に木材を降ろす「大きな音」は、森林鉄道の廃線とともに消えてしまいました。

 

奈半利町での暮らし

「子どもの生まれてないときは、用事もないき、家で洗濯したり。昔は洗濯機ないきね。手でごしごしやき。洗濯したり、まぁ掃除をしたり。そんなことよ。ほんでね、畑らはね、はじめっから畑行かないかんやて言わんきね。覚えちゅうがはね、お芋のつる、ちょうど今時分の季節よね。「お芋を植えに行く」言うてね義理の両親がね。ほんで私もうちにおるがも暇やきね、“ついていこう”言うてねついていってね、お芋のつるを植えたがよ。ほんならね、姑がね、“お芋を植えるに上手やね”言うてね(笑)」。

 昭和37年(1962年)か38年(1963年)頃、細川さんは地元の製材工場「関西木材興業株式会社」に勤めはじめました。「仕事はね、重労働(笑)。肩もいたい、腰もいたい。柱ができたら、面を取ってね。製材された木材を機械に通して、磨いたり、角をとったりね。26年間お勤めしました」。「その頃は木材が一番あった時代やきね。当時は20名ほど働いていたね。男と女は半々ばぁだったかね。男が柱を引いて、女が仕上げをしてね」。昭和39年頃は、年間1,200隻の機帆船が木材や製材品を奈半利港より積み出していたそうです。

 

 

 

注1▷材木を積んでいたのはトロッコ、人を乗せて走るのは「客車」と呼んでいた。

 


インタビューを終えて


これまで馬路村(うまじむら)や北川村(きたがわむら)など山間部でインタビューをしてきた私たちにとって、細川さんに語っていただいた奈半利町の暮らしや嫁入りの話は、新たな発見がたくさんありました。森林鉄道のあった暮らしを「大きな音」と表現されていたのが印象的でした。

 

【構成/赤池慎吾】