梼原町ライフヒストリー集

空を飛ぶ草の記憶

 

中越(なかごえ) 隆綱(たかつな) さん

 


■ ご紹介 ■


中越隆綱さんは、昭和9年(1934年)生まれの89歳。「梼原町の奥の奥」と呼ばれる梼原町四万川区下井桑(しもいそう)に生まれ、子供の頃から草刈りや農作業をして家族を助けました。電気は無く、「明かり」と言えば松根油を使っていた時代、生活に必要な資源の多くは山にありました。幼い隆綱さんの目に映っていた山の風景を語っていただきました。


聞き取り 令和5年(2023年)6月 / 7月


20kgの塩の重み

 愛媛県の出身である隆綱さんの父、中越辰蔵(なかごえたつぞう)さんは、二十歳の頃に養子として下井桑に婿入りしました。自分のことはあまり話さなかった父ですが、「近所の人がたまげるほどよく働いた」と隆綱さんは振り返ります。母である中越元恵(なかごえもとえ)さんも、戦時中に4人の子供を育てるのは決して楽ではなかった中、懸命に育てました。電気がまだ通っていなかった時代、「朝は顔を洗うのにも寂しい」ほど、あたりは暗かったと言います。しかし、そんな暗いうちから、父である辰蔵さんは既に家を出た後で、朝日が出る前から夜の星が出るまで働いていました。

 隆綱さんの通っていた四万川西小学校には同級生が28人いました。同じ下井桑集落には6人もいました。身体が大きく、家の手伝いで鍛えられた隆綱さんは、当時の子供達が「陣入(じんにゅう)」と呼んだ手打ち野球、ドッジボール、相撲など、どれも名人だったと話します。
そんな子供時代を振り返りながら、「年をとると、勉強の大切さが身にしみるね」と一言。あまり学校に行けなかった子供時代の記憶が、話をしている中で蘇ってきました。

 道路が十分に整備されておらず、自動車も無く、あるのは馬車。そこで荷を運ぶのも子供の仕事でした。隆綱さんの記憶は小学校一年生にまで遡ります。ある日、道が崩れ、馬車が通ることができなくなりました。隆綱さんは、約20kgの塩を筵(むしろ)で編んだ袋に詰めて、負子(オイコ)に担いで梼原から下井桑まで背負って運びました。道路が大きく改善された現在でも、梼原から下井桑まで約17kmもあります。「晩には足が動かなくなるほど苦労した」と、話します。隆綱さんは、「負子に背負って荷を運ぶこと」を「身体へうたせてあげる」と表現します。大人は隆綱さんの2倍の40kgを「身体へうたせてあげた」といいます。荷を運ぶ仕事は日常的にあり、山からはミツマタや薪(たきぎ)、戦時中には一日10わの下肥を担ぎました。その時の記憶が蘇ったのか、隆綱さんは無意識に肩をさすっていました。

 

子供時代に住んでいた下井桑
子供時代に住んでいた下井桑

失われた言葉「カヤビレ」

 子供の大切な仕事の一つに、草刈りがありました。隆綱さんは、小学校3年生頃から毎日、学校から帰ると草刈りに出かけました。家の近所で草を刈るときもあれば、家から1km程離れたところまで草刈りに行くこともありました。子供の手は柔らかく、茅で手を切り血が出ることもしばしば。このように茅で手を切ることを下井桑では「カヤビレ」と呼びました。刈り取った草は直径10cmほどの束にし、3〜4束を担いで帰ります。夏はその日のうちに牛に与え、冬から春にかけては、枯れ草と藁に米ぬかを混ぜて与えました。

 小学校4〜5年生の頃、近所に住む5歳年上の兄さんと下井桑から北へ2kmほど離れた山奥に草刈りに出かけたときの話です。途中で梨をもいで食べました。その時の記憶が鮮明に残っていると話します。
気が付いたらとうに日は暮れて、当たりは真っ暗。二人で山道を恐る恐る下りると、その道中に山小屋を見つけました。当時、山のあちらこちらにミツマタ作業用の休憩小屋がありました。この小屋を「モリヤ」と呼んでいました。 
 小屋の中には焚き付けの薪やたいまつ、それにマッチがありました。二人は焚き付けに火を付け、たいまつをともして家に帰りました。一週間後、近所に住む小屋の持ち主が、焚き付けが全て燃えていることに気が付き、二人は大目玉を食らったと教えてくれました。

 

昭和28年に購入した自宅前にて
昭和28年に購入した自宅前にて

山の資源を運ぶ「ジャンジャン」

 金肥が手に入らない時代、水田や畑の肥料は草に依存していました。中越家には草場が3カ所約1反ほどあり、集落で共有する採草地も利用しました。
 各集落によって採草地のルールは異なります。高階野集落に約一反の水田を所有していた中越家は、同集落の採草地を利用しました。隆綱さんが「確か9月20日頃」という日に集落の皆が提灯に明かりを灯し、山道を2時間ほどかけて向かいます。家族総出で3日ほど草刈りに通ったと言います。

 

 9月20日以降に刈り取った草は畔(くろ)にして、10月の米刈り(稲刈り)が済んでから、11月頃に採草地から水田や畑に運びます。その草を運ぶのに使ったのが「ジャンジャン」です。
「ジャンジャン」とは山に張られた直径7mmほどのワイヤーのことで、これを今で言うジップラインのように張り、採草地から下へ下へ何カ所かの経由地を経て草を降ろします。この作業は中越家だけで行い、「ジャンジャン」の上手と下手に家族が別れて準備し、10〜15kgほどの草の束を滑車に架けて何度も何度も運びました。
 隆綱さんは山の資源である草、薪、ミツマタなどあらゆるものを「ジャンジャン」で送ったと言います。採草地まで距離が遠く、ミツマタ栽培の盛んであった下井桑には、このような「ジャンジャン」が13〜14カ所あり、他の集落に比べて圧倒的に数が多く、使用頻度も高かったと教えてくれました。

 

ジャンジャンと滑車の仕組みを説明する隆綱さん
ジャンジャンと滑車の仕組みを説明する隆綱さん

伐畑からミツマタ、そして植林へ

 隆綱さんが子供の頃に見慣れた景色は今と違います。山では伐畑(きりはた)があちらこちらで行われていました。夏、6月頃に藪を伐り倒し、薪などに使える木材は除き雑木や枝などを乾燥させます。8月の盆明けには火をつけてそれを焼きます。火入れをした翌日には厚く丈夫な刃が付いた唐鍬(とうくわ)で打ち返してソバを蒔きます。伐畑でつくるソバはできが良かったと言います。中越家では4〜5年に一度、面積にして約1反ほどを伐畑として山を利用していました。当時は下井桑に住む誰もが同じように伐畑をして暮らしを支えていました。

 ソバを収穫した翌年には、火入れをせずに同じ場所で豆やトウキビ、サツマイモを植えました。隆綱さんは「土地によりますが」と前置きし、地力のある所、土のある所は何年もサツマイモを植えることもあったと言います。それでも多くの場所はソバを植えて、2〜3年後にミツマタを植え付けました。中越家では3貫(約11.25kg)の束にしたミツマタをたくさん出荷し、貴重な現金収入としていました。伐畑での食料生産、その後にミツマタ栽培へという山の利用は、昭和30年代後半にミツマタの虫害被害が出るまで続きました。

 

昭和28 年(1953 年)の⼟地利⽤ 出典:『⼟地図⾯』(昭和28 年)および「法務省登記所備付地図データ」 (G空間情報センター)を基に作成(作成:佐⽵泰和) 注:「伐畑と山林」は合筆により両者を区分できず。
昭和28 年(1953 年)の⼟地利⽤ 出典:『⼟地図⾯』(昭和28 年)および「法務省登記所備付地図データ」 (G空間情報センター)を基に作成(作成:佐⽵泰和) 注:「伐畑と山林」は合筆により両者を区分できず。

 昭和40年代以降、虫害によりミツマタ栽培が衰退し、山は植林の時代に入りました。町からの補助金を得て、かつて伐畑・ミツマタであった山に杉や檜が植え付けられ、「山」から「森」へと姿を変えていきました。昭和47年(1972年)には、町の一大事業である大規模林道工事がはじまり、隆綱さんは土建会社に勤め始めました。そこで重機の扱いを覚え、腕を磨いたと言います。


 昭和60年(1985年)頃、隆綱さんはバックホー3台、ダンプ車などを個人で購入し、林内に作業路をつける請負仕事を始めます。当時、森林組合が3,500円/m〜5,000円/mほどで請け負う仕事を、隆綱さんは3,000円/mで引き受けていました。隆綱さんの仕事の評判は頗る良く、筆者も梼原町在住の山林所有者から「あの人がつける路(みち)は良い」と何度か耳にしたことがあります。


 隆綱さんが作業路をつけ始めた昭和60年代は、植林して20〜30年の杉や檜が多く、木材の取引価格も高騰していました。作業路をつけることで山の価値は上がるが、山林所有者の中には木を伐採するのを惜しんだ人も少なくなかったと言います。
隆綱さんは生涯にわたって「自分一人で2万mの作業路をつけた」と胸を張ります。その姿は、とても誇らしげでした。今も、梼原町の森林の中には、隆綱さんがつけた作業路が残っていることでしょう。

几帳面に積まれた中越家の薪小屋
几帳面に積まれた中越家の薪小屋

インタビューを終えて


昭和28年(1953年)、隆綱さんが二十歳を迎える前、隣の文丸(ぶんまる)集落に新居を購入し、移り住みました。購入当時も「今と同じで古かった」と笑いながら私たちを迎え入れてくれました。納屋には私たちが探し求めていた「ジャンジャン」があり、私たちは感動の声を上げました。実物を手にしながら滑車の架け方などを身振り手振りで教えて頂きました。隆綱さんの語りを聞くと、かつて梼原の山にいくつも「ジャンジャン」が張られ、草の束が飛び交う景色が浮かんできました。


【構成/赤池慎吾・増田和也
・佐竹泰和