中芸みんなの日本遺産〜「サブストーリー」コレクション〜

森林鉄道に乗って出産へ

 

大石おおいし 四四子よしこさん


◆ ご紹介 ◆

大石さんは、昭和13年(1938年)生まれの82歳(インタビュー当時)。馬路村魚梁瀬地区東川(うまじむらやなせちくひがしがわ)に7人兄妹の長女として生まれ、昭和40年代まで西川(にしがわ)事業所で暮らしました。「ほんと、ろくなこと言い話さんけんど」からはじまったインタビューは、1時間40分に及びました。小学校4年生で父親を亡くされ、ご苦労された大石さん。魚梁瀬地区西川での思い出を語っていただきました。

 

聞き取り 平成30年(2018年)4月


父親の背中

 両親は明治生まれの大栃(おおどち、現在の香美市物部町(かみしものべちょう))出身。父親は大栃で日雇(ひよう)(注1)の親方をされていたという。「私はどこで生まれたろね。魚梁瀬に来てからろうかね」。大石さんが生まれる前に、両親が馬路村魚梁瀬地区に移住されてきたそうです。

 

「父は日雇でね。日雇の親方でね、人をつこうてね。仕事のことは記憶に無いね。そんなに込み入った話し合い言うことはあんまり無かったと思う。なにせ小学校4年ばあの時に、のうなったきねえ」。目を閉じながら、父親との一番古い記憶を思い出していただきました。「学校に入って間もない頃、児童合宿所(以下、合宿所)(注2)から戻ってきて。お父さんが迎えに来てくれて、負(お)ぶってもろうて、家帰ったんは覚えちゅうきね」。

合宿所の子供ら
合宿所の子供ら

「修繕」(しゅうぜん)の仕事

 はじめての仕事は、森林鉄道の保線作業である「修繕」でした。「小学校済んで中学校2年まで魚梁瀬にいて。中学校3年は、学校に行かんずく徳島に住んでいた姉の子守の手伝いに行ってね。そんで戻ってきてからお母さんと一緒に修繕の仕事に行った」。「西川の工区をやっちょった。上(かみ)と下(しも)の二組やったとおもう(筆者注釈:魚梁瀬森林鉄道・宝蔵線の約15kmで2つの工区が設定されていた)。5~6人ばー、一組になってね。朝は早かったで。7時半頃に行ってやりやせんかったかね。昼休みはとって、5時頃まで」。「本当、昔は休み無かったで。6日も7日も行く時は10日も続けて行かないかなねえ。今みたいに(休日は)決まっちゃせんき、ほら。昭和20年代、あの時分になんぼもろうたろか。700円ばー、もろうたかな」。

 

森林鉄道に乗って出産へ

 昭和30年代、西川事業所での結婚や出産はどのようなものだったのでしょうか。人生の一大イベントだった結婚、そして出産から当時の暮らしを語っていただきました。「エヘヘ、結婚したのは18歳。婚礼もせんで、しやせん。お酒飲んでもう、ねえ。終わりよ。おばあさんが元気なうちに、写真でも撮っとかんき一言うたけんどねえ。いやもう年いうて、ほんなことしとうない言うてじゃったきねえ。うん、お酒飲んでもう、近所の人が集まってねえ、お酒飲んでしたばよ」。仕出し料理なんかも並べたのかと質問したところ、「そんなものあるか。ハッハッハ」と笑っていました。

 

「20歳で女の子ができて。魚梁瀬には診療所いうて営林署の病院があったけんどね。そこには産婆(さんば)さんおらんじゃきね。ほんでね、安芸(あき)にいって産婆さんに取り上げてもらって」。お住まいの西川事業所から産婆さんのところまでは、森林鉄道に乗って田野まで行き、バスを乗り継いで安芸まで行かれた。身籠もで森林鉄道に乗ることに不安は無かったのでしょうか。「そんなことない。トロッコで合宿所に行ってたからしょっちゅう乗ってたき。不安は一つも無いね」。昭和30年代初頭、魚梁瀬地区では、出産のためにガソ(注3)に乗って安芸へ向かい、帰りは赤ちゃんを抱えて帰ってくる。そんな暮らしがありました。

 

昭和38年(1963年)、森林鉄道廃止によって変わった暮らし

 昭和38年(1963年)、森林鉄道が廃線となりました。廃線を契機として、道路が整備され、人の移動やモノの運搬は自動車に変わりました。森林鉄道の廃止は、西川事業所の暮らしにどんな影響を与えたのでしょうか。

「バスになってから、魚屋さんや青物屋(筆者注釈:野菜や果物などを売る店)さんが来よったきね。魚は何でも買えたわ。(森林鉄道の時は)週に一回、配給所に来てたからね。バスになって、一週間も空くことは無かったね。配給所の時は数も限られてたから、皆に行き渡らないときもあったしね。ようけ買うてほんと食べたで。ハッハッハ。その時代までは、食べるもんが欲しいからね」。「バスになってから、安田町の服屋も売りに来よったね。スーツを仕立てにね。普段着は魚梁瀬の門田と伊吹いう雑貨屋があったきね。薬屋さんは、ほら富山の薬売り。西川の奥まで売りに来ちょったで。泊まり込みで」。 

西川事業所全景
西川事業所全景

注1▷伐採後の木材を運搬する専門集団のこと。

注2魚梁瀬地区よりさらに奥(北側)の東川事業所・中川事業所・西川事業所に住んでいた子供達は、事業所から魚梁瀬小学校に通学することができなかったため、魚梁瀬地区にある児童合宿所に寄宿していた。毎週土曜日の午後に森林鉄道で各事業所に帰省し、日曜の朝方に魚梁瀬に戻ってきた。

注3森林鉄道の機関車のことを「ガソ」(またはガソリン)と呼んでいた。

 


インタビューを終えて


大石さんがお住まいだった西川事業所は、魚梁瀬森林鉄道の終点があった石仙(こくせん)駅から更に北へ10kmほど進んだ所にあります。木材伐採をするために営林署が開設した集落で、当時は数十世帯が暮らしていました。上(かみ)へ上(かみ)へと登る森林鉄道の車内には、赤ちゃんを大事に抱えた大石さんの姿がありました。

 

【構成/赤池慎吾】