中芸みんなの日本遺産〜「サブストーリー」コレクション〜

運動場から眺めた森林鉄道

山村やまむら 久美子くみこさん


◆ ご紹介 ◆

山村さんは、昭和18年(1943年)生まれの78歳(インタビュー当時)。安田町(やすだちょう)安田に生まれ、安田小学校・中学校を卒業されました。毎日、自ら進んで家のお手伝い。友達と遊ぶのが大好きだった女の子。田野町(たのちょう)の洋裁学校を卒業し、大阪に就職されるまでの17年間を安田で過ごしました。11年間の大阪生活を経て、奈半利町(なはりちょう)に嫁入りされた山村さん。幼少期を過ごした地域にある観光交流施設「まちなみ交流館・和(なごみ)」でお話を伺いました。

 

聞き取り 令和3年(2021年)4月・7月


毎日、魚を運ぶ父の姿

 幼少期を振り返り、はじめに口をついて出たのがお父さん(中島金一さん)の働く姿でした。父は、私が小学校に上がる頃(昭和25年頃)まで、小さな「伝馬船」(てんません)(筆者注釈:櫓でこぐ小さな船)で沖に出て、漁をしていました。「当時は港が整備されていないから、砂浜に枕木を敷いて引き上げてね。小さい魚をよーとってきて。私が家に帰ると、かごいっぱいに魚が入っていて、嬉しくてね」と、山村さんは懐かしそうに振り返ります。しかし、漁業だけでは5人の子供を養うのは容易でなく、新しい仕事をはじめたといいます。

「お父さんは、自分の仕事を「魚の卸業」って言っていたね」。高知市弘化台(こうかだい)にある水産物卸売業「大熊」(現在の大熊水産株式会社)から魚を仕入れ、地元の鮮魚店(注1)や行商人(注2)に魚を卸していました。「トラックが必要な仕事だから、私の近所で卸業をやっている方はいなかったね」。昭和33年(1958年)頃、お父さんは体調を崩し、卸売りの権利を叔父に譲りました。この頃には、交通機関が発達し、町までの買い出しが容易になったこと、近所に商店が増えたことなどから、自転車で魚を売り歩く行商人は姿を消していきました。昭和20年代中頃から30年代初期にかけて、安田町の食卓に上っていた魚は、山村さんのお父さんが卸したものだったのかもしれません。

思い出のトラックとお母さんの中島八十野さん
思い出のトラックとお母さんの中島八十野さん

両手でひとすくいのオジャコのために

 昭和24年(1949年)、山村さんは地元・安田小学校に入学しました。当時、一学年は3組、合わせて100人の同級生がいました。休み時間には、ボール遊びやゴム跳びに友達と夢中でした。「私はゴム跳びが大好きで、文房具屋さんで輪ゴムを買って、それをみんなで縄に編んでね。一人で遊ぶときは、家の柱にゴムを引っかけて遊んでいたくらい」と微笑みます。

 

 放課後や休日には、海岸に足を運びました。小学校6年生くらいまで、目の前の海岸で地引き網のお手伝いをしていました。「大人も子供も皆で轆轤(ろくろ)をこいで、地引き網を引くの。家があまり裕福ではないから、お手伝いをするとオジャコをもらえるの。両手でひとすくいのオジャコ。それをもらってきたら、少しでもおかずの足しになると思って。お味噌汁に入れたりね。それが美味しくてね」。
けっして親に強制されたわけでもなく、地引き網の他にも、共同井戸からの水汲み、炊事や洗濯、山の上の畑仕事など、自分から進んでお手伝いをしていたそうです。当時を振り返り、「お小遣いがもらえないから、駄菓子屋でお菓子を買ったりできなくて……。家が貧しいのをわかっていたから、少女向け雑誌『なかよし』(注3)を買ってと言えなかったこともあった。それでも、毎日お手伝いをして良かったと親に感謝してる」と笑顔で振り返りました。

昭和30年頃、安田町の地引き網の様子(所蔵:安田町まちなみ交流館・和)
昭和30年頃、安田町の地引き網の様子(所蔵:安田町まちなみ交流館・和)

今日は何両の丸太を積んでいるかな

 安田中学校に入学した山村さん。話題は安田川の上流にある馬路村(うまじむら)に。「私は馬路村に行ったことはなかったけど、森林で賑わっていたから、貧しい家の子供達はそこに稼ぎに行くって話を聞いた。近所の年上の男の子も、働きに行っていた。うん……、働きに行かされていたね。当時の馬路村は、人が必要だったみたいね」。そして話題は森林鉄道に及びます。「当時は森林鉄道が走っていてね。みんな「ガソ」「ガソ」って呼んでいた。森林鉄道に乗ったことはないし、特に乗りたいと思ったことは無いけど」と話し始めた山村さんがこんなエピソードを話してくれました。「休み時間に運動場に出ると、学校の対岸を「ガソ」が走っていてね。丸太を積んだ車両を何列も繋いで走っているの。今日は何両あるかな、なんて暇なときは数えたりしてね。そうね、結構ありましたね。10両以上あったかしらね」。訪れたことの無い馬路村から森林鉄道で運ばれてくる大量の丸太を見て、賑わっていると聞く村の様子を想像していました。

 当時、中学校を卒業した生徒の三分の一が高校進学、残りの三分の二は就職でした。「家が貧しかったから、成績は良かったけど高校に行くことができなかった」という山村さんは、田野町にある洋裁学校(田野町自由洋裁学院)に通い始めます。当時は30名ほどの女学生が通っていたようです。月謝は800円。安い金額では無かったといいますが、洋裁を学びながら、注文を受けて洋服を仕立て「既製品が無い時代だったから、月謝以上の賃金をもらえた」といいます。

 洋裁学校を2年で卒業し、姉の住んでいた大阪・心斎橋のそごうデパートに就職しました。11年間の大阪生活を経て、昭和46年(1971年)に親戚の紹介で奈半利町出身のご主人と結婚。以後、奈半利町に戻って暮らしています。2022年には、金婚式を迎えます。

和35年(1960年)、大阪に就職する期待と不安を抱えて。安田町の海岸にて
和35年(1960年)、大阪に就職する期待と不安を抱えて。安田町の海岸にて

注1▷山村さんのお父さんが卸していた鮮魚店は、町田鮮魚店(奈半利町)、西岡鮮魚店(田野町)、松田鮮魚店(田野町)の3店でした。
注2▷当時は個人で自転車にトロ箱を積んで、魚を行商する方がたくさんいました。米との物々交換もあったという。一箱で200円ほどの利益が出れば良いほうでした。
注3▷昭和29年(1954年)12月に創刊された講談社が発行する日本の月刊少女漫画雑誌。

 


インタビューを終えて


安田町の町中で過ごされた山村さんの記憶は、これまであまり語られていない貴重なお話をいくつも聞くことができました。漁師の家のお手伝い、食卓に上る魚はどこから来ていたのかなど、山間の集落とは違った中芸地域の暮らしがありました。山村さんの表情には、両手でひとすくいのオジャコと一生懸命にお手伝いをした当時の姿がありありと浮かんでいました。「これで人生も終わりかなと思うほどよく話した」と笑顔で振り返った山村さん。コロナ禍にもかかわらず、感染対策やオンライン・インタビューにご協力いただき、ありがとうございました。

 

【構成/赤池慎吾・岩佐光広】