中芸みんなの日本遺産〜「サブストーリー」コレクション〜

女性でただ一人の

「トロ乗り」

平山ひらやま 安子やすこさん


◆ ご紹介 ◆

平山さんは、昭和7年(1932年)生まれの82歳(インタビュー当時)。大きな声と笑顔でインタビューを受けて頂いた。安田町中山(やすだちょうなかやま)に生まれ、同じ集落に嫁がれた生粋の中山娘である。幼少期から父親の石工(いしく)(注1)仕事を手伝っていたという。また平山さんは石工を「石割(いしわり)」と呼んでいる。嫁入り後は、農作業や土木作業だけではなく、女性唯一の「トロ乗り」に従事されたという。「トロ」とは線路に乗せた滑車付の台車である。料理がとても上手で地元の祭りや催しに振る舞う柚酢を使った五目寿司は、郷土の味の一つになっている。

聞き取り 平成27年(2015年)8月


石工の父親との思い出

 父親と遊んだ記憶はないが、父親の仕事をよく手伝っていたという。「父は炭焼きのほかに石割(いしわり)もしていた。河原で石をはつり(斧)で割ったりね。私らもあげに行った。山に石切場があって、大きな岩を割っていた。与床橋の切石を積んだのは、父が西ノ川集落の小松さんに依頼をして積んでもらった」。現在も安田川に架かる与床橋(よどこばし)の思い出を語ってくれた(注2)。

 

 技術を教えてもらったというより、昔の人はできた。野積みも専門の人がたくさんいたが、切石を積むやり方もある。石の取り方も違う。石工を専業にする人もいた。切石の方がきれい。石は河原にあった。軌道淵の石積みは安田川(やすだがわ)の石を割って使った。大きな石を割るのにダイナマイトも使った。「そのときには、こっそり鮎を拾いに行ってね(笑)」。現在はブロック工法も多くなったが、今も安田町中山地区に多く残る手積みの石垣は、このような石工の仕事があったからである。

与床橋に隣接する切石積みの石垣
与床橋に隣接する切石積みの石垣

子供の頃の楽しみは熊野神社の神祭

 決して経済的に豊かではなかった中山地区だが、当時の楽しみはどのようなものだったのだろうか。「楽しみといったらなんと言っても熊野神社の神祭(じんさい)だったね。神輿様や太鼓台もでてね。「嫁探しや婿探し」なんていってね、娘さんや若い衆もみんな来てね。相撲とったり踊ったり、謳ったり。あれが中山地区では一番人気だったね」。当時の若者達の出会いの場だったのですね。

高校時代の平山さん(二列目向かって左端) 出典:中芸高等学校記念誌編集委員会(1998)『創立五十周年記念誌』
高校時代の平山さん(二列目向かって左端) 出典:中芸高等学校記念誌編集委員会(1998)『創立五十周年記念誌』

「10月11日、その日は、「ガソ」(注3)がでてね。客車は人でいっぱいで、それにさらに箱をつけてお客さんが乗ってきていた。若い衆は食え食えと言われ、餅をポケットに入れられて。食べきれない若い衆は、明神口の鉄橋から餅を放ってたよ(笑)」。

 

女性でただ一人の「トロ乗り」

 終戦後、数年間だけ存在した「トロ乗り」に従事した唯一の女性だったという。「トロ乗り」とはどのような仕事だったのだろうか。

 

「戦後は食べるのがやっと。みんな山に入って焚き物(炊事に使う枝や薪といった燃料)を拾ってきたりした。畑に芋を植えてね」。戦後復員で人口が増えた昭和25、26年頃の話。民有林で伐採された木材や炭を運ぶトロ乗りという仕事があったようだ。「私らは運搬するだけ、材木を切ったりはしない。島石(しまいし)で木材をトロに積んだ。そこまでは飛ばし(集材機)で運ぶ。ばんだい(土場)では、丸太になっている。当時、トロ乗りは菜虫さんと平山の2軒だけだった。(馬路(うまじ)に)上がるときは機関車に連結してもらって、トロをあげた」。ちなみに「トロをあげた」というのは、山から木材を積んで海まで木材を運んだ後に、空のトロを、集めた木材を積んでおく「ばんだい」まで機関車で牽引して引っ張っていってもらうことである。

トロ乗り時代の平山さん(写真左)。 安田町別所の親戚の家にて
トロ乗り時代の平山さん(写真左)。 安田町別所の親戚の家にて

 代金は運搬する木材の量によって支払われたという。「収入はすべて主人がやっていた(管理していた)。暮らしていける給与だったが、主人はよく酒を飲んだ。このあたり(安田町中山地区)は土木作業はあまりなかったし、このあたりでは(トロ乗りは)稼げる仕事だった」。

 トロ乗りの仕事は、森林鉄道の始発が朝の7時に田野(たの)から馬路まで上がる間に行われる。そのため、トロ乗りの朝は早かったようだ。「朝1時に起きてご飯作って。2時頃に夫を起こしてご飯食べさせて、2時半頃に子供を背負って家を出る。朝3時には現場で木材をトロに積んでいた。木材を積み込むのに2~3時間かかった。積み込み作業の間は、長女を線路にくくって、泣いてもそのままだったね」。今では考えられないが、乳飲み子の世話をしながら危険なトロ乗りの仕事に従事されていた。

 

戦後の娯楽は映画とダンス

 トロ乗りや農作業など、毎日ひたすら働いた日々。最後に思い出に残っている昭和30年代の娯楽について聞いてみた。「戦後の新しい娯楽は映画。安田橋(やすだばし)のたもとにショウフク座という映画館があったし、大心劇場も今とは違う場所(注4)にあった」。戦後復興期に少しずつ娯楽が増えてきたという。「安田(町の中心部のこと)にはダンスホールもあってね、よー若い衆はダンスを踊りに行った。当時は社交ダンスがはやってね。チークダンスもあったね。みんな習いに行ったものよ」

昭和50年(1975年)、働き盛りの平山さん
昭和50年(1975年)、働き盛りの平山さん

注1▷石工とは、石を割って橋脚や法面などの土木施設を作る人のことである。

注2現在の安田川に架かる与床橋は、昭和37年に改修が行われている。

注3森林鉄道の機関車のことを「ガソ」(またはガソリン)と呼んでいた。

注4大心劇場の現在の場所は安田町中山の内京坊(ないきょうぼう)である。しかしかつては正弘橋(まさひろばし)のたもとに存在した。

 


インタビューを終えて


生まれてから今まで、安田町中山地区で暮らされてきた平山さん。安田町中山地区の様々なお話を伺った中でも、特にトロ乗りの仕事が印象的であった。森林鉄道は、主に国有林の木材を搬出するために敷設された林業インフラである。トラック輸送が未整備な時代、平山さん達トロ乗りが民有林の木材や木炭を運搬していたのだ。郷土史にも残っていないトロ乗りという仕事を教えてくれた。また、子育てをしながらトロ乗りに従事していた平山さんの気力と体力に驚かされた。

 

【構成/赤池慎吾・岩佐光広】