梼原町ライフヒストリー集

初めて杉を
植えた日のこと

 

中越(なかごえ) 友江(ともえ) さん


■ ご紹介 ■


中越友江さんは、昭和12年(1937年)生まれの85歳。8人兄弟姉妹の次女として生まれ、幼少期は「部屋子」(へやご)として祖父母の住む離れで暮らしていました。二十歳になった昭和32年(1957年)、四万川区坂本川(さかもとがわ)から、現在お住まいの四万川区井高(いこう)に嫁いできました。茅葺き屋根だった当時の写真を見せていただきました。今では植林された杉林が広がり、一面の緑に覆われている井高。友江さんが嫁いで来た当時の景色は、だいぶ違っていたようです。


聞き取り 令和4年(2022年)10月


優しかった祖父と祖母

父・広瀬三郎さんは、幼少期に四万川区東川から養子として坂本川に迎え入れられたと言います。家は百姓で、水田のほか、畑でキビ、小豆、野菜を育てていました。母・福江さんは、畑で作った大根や芋をモッコに背負って四万川区の中心地である六丁(ろくちょう)まで行商に通いました。
8人兄弟姉妹の三番目で、身体の弱かった友江さんは、「部屋子」(注1)として祖父母の住む離れで暮らしました。祖父母は子供がいなかったので、「じいさんも、ばあさんも孫をつれてみたかったんじゃろ」と友江さんは話します。「じいさん、ばあさんは優しくしてくれた」と言うように、両親と離れた部屋での暮らしに寂しさを感じることはありませんでした。
一方、兄弟姉妹たちは部屋での暮らしが羨ましく、たびたび指をなめては障子に穴を開け、部屋を覗いていたと笑います。兄弟姉妹が友江さんを羨ましがった理由の一つが食事です。友江さんが「部屋と主屋の食べ物はぜんぜん違う。部屋は良かった」というように、部屋では麦飯、主屋はキビ飯でした。毎日、麦飯を食べていた友江さんはキビ飯を食べたことがなく、醤油の実(もろみ)をおかずにキビ飯を食べる主屋を少し羨ましく思ったほどでした。

 

中学生時代の友江さん(上段右)
中学生時代の友江さん(上段右)

友江さんが通った四万川国民学校初等科(後の四万川東小学校)は、一学年30人と賑やかでした。気管支炎を患っていた友江さんは、毎日のように病院に通い、友達とかけっこも水泳もすることが出来ませんでした。ただ一度だけ、川で楽しく泳ぐ友人らの姿を見て、どうしても我慢できなくなり、川に入ったことがありました。すぐに咳が出て体調が悪化し、翌日には祖父に背負われ病院へ。後日、その話を聞いた近所のおばさんから、「やっぱり川に入ちょったか」とお灸を据えられました。


身体が弱く、「部屋子」だった友江さんは、兄弟姉妹がしている農作業など主屋の手伝いはしなかったと話します。そのような中で友江さんに任されたのが藁縄を編むという作業。それは大切な仕事でした。友江さんの編んだ藁縄をつかって、祖母と母は「だす」と呼ばれる炭俵を茅で編みました。こうして作った「だす」を、坪野田国民学校(後の四万川西小学校)の児童が学校帰りに10個ほど買って帰る様子をたびたび見かけました。
中学2年生になった友江さん。気管支炎が「急に良くなった」と言います。その後は青春を取り戻すようにバレーボールに熱中したそうです。

 

嫁入り先の景色

中学校の卒業式を迎え、友人の多くは大阪や県外に就職していく中、友江さんは梼原町に残りました。校長先生の紹介で、愛媛県立間に勤める話も出たそうですが、「じいさん、ばあさんが反対した」と言います。中学卒業後は、農業や部屋の手伝いをして暮らしました。

 

二十歳を迎える少し前、突然、四万川区井高の中越家に嫁ぐ話が決まりました。嫁入先は「怖い父が決めて。知らんところ、知らん人のところに嫁いだ。今思うと、よー来たよね」と笑います。嫁入りの話を知った祖母は、「友(とも)は知らんところに行く」と泣いていたと言います。

 

嫁入り当時の井高の様子(中越家は中央右)
嫁入り当時の井高の様子(中越家は中央右)

昭和32年(1957年)、箪笥、下駄箱、ミシンといった嫁入り道具をもって井高の中越家に嫁ぎました。ご主人の中越寿(なかごえたもつ)さん、義父、義母とまだ小さい兄弟との結婚生活。中越家は、6反の水田に畑ではキビや芋のほか、タバコやネノリ(筆者注釈:和紙製造に使うトロロアオイの根。根糊)を栽培していました。

中越家の食卓は、里の「部屋」とは違い、キビ飯が主食でした。友江さんが「部屋子」のときに羨ましがったキビ飯を「ここ(中越家)に来てからは、嫌というほど食べさせられた」と、大きな声で笑います。時には、義父が鉄砲で撃ってくるウサギ、山鳥、キジが食卓に上がりました。猟に出る前の「大根そいどきよー。キジとってくるけんの」という義父の弾んだ声を、今でも忘れられないと話します。

嫁ぎ先の中越家は、たくさんの山を所有していました。中越家に嫁いだ昭和32年(1957年)当時、山に杉はほとんど植えられておらず、茅場(かやば)が広がっていました。山では「ソバ焼き」(焼き畑をしてソバを播く)が行われ、ソバ、小豆、大豆が数年栽培されたのち、一面のミツマタにかわりました。そのミツマタも病気が流行り、いつのまにか廃れていったと言います。
山に杉を植え始めたのは、この頃からです。友江さんは、初めて山に杉を植えた日のことをはっきりと覚えていました。「ひばり(美空ひばり)とアキラ(小林旭)が一緒になるいう噂が流れた」昭和37年(1962年)のことでした。

初めて杉を植えた山を眺めて
初めて杉を植えた山を眺めて

苗木は、山から数センチの毛苗(けなえ)を採ってきて、畑に移植して1〜2年かけて30cmほどの「山行き」(苗)に育てます。春、オイコに一杯の「山行き」を背負って、ご主人と朝から晩まで、何日も何日も植えに行きました。夏は植え付けた山の刈り上げ(下刈り)です。何年もかけて、ご主人と一緒に山に杉を植えました。「ちいとは使いたいと思うて植えたけんどね」と当時を思い出しながら、「難儀して植えたのに、ちっとは売ってお金にしたい思うのにね。まだ自分の植えたところは売ってないきね」とご主人と植林した日々に思いを馳せていました。

 

注1▷梼原町では、子供に世帯を譲って隠居したものは主屋(おもや)に干渉することを遠慮して「部屋」(へや)と呼ばれる別棟で暮らす慣習がありました。主屋に子供が多く、子育てが大変な家では、隠居したものが暮らす「部屋」で子供を預かり、「部屋子」(へやご)として主屋とは寝食を別に育てます。

 

 

 

 

 


インタビューを終えて

インタビュー後、庭先に出て、初めて杉を植えた山を指さしながら笑顔で思い出話を語っていただきました。いまでは一面の杉林が広がる梼原町。友江さんの話を聞き、いま私たちの目の前に広がる緑一面の景色は、けして自然にできたものではなく、一本一本、人の手でつくってきた景色なのだと再確認することができました。


【構成/赤池慎吾・増田和也】