中芸みんなの日本遺産〜「サブストーリー」コレクション〜

森林鉄道で運ばれてくるパン

 

小松こまつ ヒロ子ひろこさん


◆ ご紹介 ◆

小松さんは、昭和16年(1941年)生まれの77歳(インタビュー当時)。現在、長野県にお住まいの小松さんは、私たちのインタビュー調査のことを知り、わざわざ会いに来てくださいました。魚梁瀬(やなせ)国有林には、杣(そま)(注1)や日雇(ひよう)(注2)といった林業労働者が全国から集まってきていました。小松さんの祖父・戸村武男(とむらたけお)さんもその一人です。岐阜県に生まれ、杣をしていた祖父の仕事で、魚梁瀬地区の東川(ひがしがわ)事業所に引っ越してきました。小学校に入学するため、徳島からいくつも山を越えて魚梁瀬へやってきた小松さんの目に、魚梁瀬がどのように映ったのでしょうか。

 

聞き取り 平成30年(2018年)10月


徳島県轟山(とどろきさん)から歩いて東川事業所へ

 長野県の上松(あげまつ)営林署(えいりんしょ)(現在の木曽森林管理署)の杣として勤めていた祖父は、終戦直後に徳島県轟山(現在の徳島県那賀町(なかちょう))の上に移住しました。

祖父・戸村武男さん
祖父・戸村武男さん

 当時は食料も十分ではなく、焼き畑(注3)をして、稗(ひえ)や粟(あわ)などを育てて暮らしていました。昭和22年(1947年)、小松さんの小学校進学のため、魚梁瀬地区東川事業所に移住してきました。

 

 徳島から東川事業所までどのように来たのでしょうか。「冬だったと思います。歩いて荷物を担いできました。だいたい一日で荷物を持って魚梁瀬まで来て、次の日に徳島に戻って(また荷物を持って魚梁瀬に向かう)。何日もかかって、荷物を運んで。一週間くらいだったと思います。山のつえた(筆者注釈:崩壊)ところは危ないから、手を繋いでね。山の道は狭くこれくらい(約80cmくらい)で、山から下りてくると軌道(筆者注釈:森林鉄道の支線)の道があって。そこに炭焼きしていた人の小屋があってね。そのおじさんとおじいさんは仲良くなって、休みの日にはお酒飲んだり詩を詠ったりしてましたよ」。就学前の小松さんは、数十キロの山道を何度も何度も往復したそうです。

 

「東川事業所は、一番空が広くてね。西川事業所、中川事業所、大谷事業所は空が狭くて。五軒続きくらいの官舎がいくつもあってね。やっぱし、前いたときは動物が出てくるような小屋でね。東川事業所はしっかりした官舎だったから、嬉しかったね」。

 

60年ぶりに里帰りした東川事業所跡
60年ぶりに里帰りした東川事業所跡

毎週火曜と金曜に森林鉄道で運ばれてくる楽しみとは

 魚梁瀬小学校に進学した小松さんは、毎週、森林鉄道に乗って魚梁瀬地区の児童合宿所(以下、合宿所)まで通いました。「東川事業所から魚梁瀬合宿所に行くときは、客車の無いトロ箱みたいなのに乗ってね。そうそう機関車のことを「ガソリン」って呼んでたね。土曜日に東川に帰って、次の日曜日に合宿所に戻る。冬はガソが来ないときもあってね。山を越えて、歩いて帰ったときもあるね。昔は靴がなかったから、下駄履きで歩いてね。夜遅くなると、おじいちゃんがランプで迎えに来てくれてね」。当時、小松さんと同じ東川事業所から合宿所に通う児童・生徒が約20名いたそうです。

通学に利用した森林鉄道。中央は妹の恵美子(えみこ)さん
通学に利用した森林鉄道。中央は妹の恵美子(えみこ)さん

 合宿所の思い出の一つが、森林鉄道で運ばれてくるパンだったそうです。「火曜日と金曜日には、合宿所のおやつにパンが出るの。機関車が遅くなると、みんな待ってるんですよね、おやつを。遅いときは6時7時になっちゃうの。次の日、土曜日に東川に帰るときは、そのパンをかじりながら帰るの。本当は金曜日に食べなきゃいけないのにね。春になったら、イタドリをとりながらね。途中で食べたり、家へ持って帰ったりね」。

 

森林鉄道との再会
森林鉄道との再会

祖父の手伝いで山へ

 祖父は営林署の仕事で、薪を伐採して納める仕事をしていたそうです。「家が貧しかったから、小学校に入学してからも1カ月に一週間は学校を休んで、おじいちゃんの手伝いに行った。冬は朝7時頃におじいちゃんの後をついて行って。おじいちゃんが鋸(のこ)で木を伐って、それをチョウナ(筆者注釈:斧)で割って。私は、割った薪を針金でとめる。一日で50束くらい。それを滑車でざーっと下まで降ろして。帰るのは日が暮れた頃ね。結構楽しかったね」。

 

 中学を卒業してすぐに田野町(たのちょう)の果物屋・木下商店で働き、翌年に東川に戻ってきました。森林鉄道の保線作業である修繕(しゅうぜん)の仕事に臨時で採用されました。「私は若いからおなかが空(す)くから、お弁当を2つ持って行ってね(笑)。午前中の休憩に一つ食べて。お昼はご飯とおかずを食べてね。みんなびっくりしてましたね」。「おばあちゃんは修繕をしてました。私のお母さんも。東川に移り住んでからすぐにね。東川からタナゴヤの担当区を5~6人でね。勤務時間は8時30分から5時30分まで。おばあちゃんと一緒に線路(レール)を持ったり、草取りもやったりとか。お給料は造林とおんなじ。だいたい180円〜220円くらいだったかな。修繕の方がきつい仕事だったね」。

 

 西川事業所の制動夫(せいどうふ)(注4)をされていた旦那さんと19歳で結婚し、安芸(あき)へ転居することになりました。最後に東川での楽しかった思い出を聞きました。「東川にいたとき、17から18歳の頃、おばさん達と山にフキやイタドリを採りに行ったことかな。山を越えて、抱えきれないほどとってね。おばさん達とどうやって持って帰ろうかねと(笑)」。

 

修繕に使った実際の道具
修繕に使った実際の道具

注1▷杣とは、主に伐採を専業とする職業集団を指す。

注2伐採後の木材を運搬する専門集団。

注3伐採跡地に火入れをして、苗木を植え付ける。数年間は下刈りを省略する目的で、稗や粟などの農作物を栽培すること。

注4森林鉄道で運ぶ木材貨物車に乗ってブレーキを調整する仕事。

 


インタビューを終えて


徳島から山を越えて魚梁瀬に移住してきた小松さん。当時、小松さんのように多くの林業労働者とその家族が魚梁瀬に移り住んできました。そんな家族の一つのサブストーリーをご紹介しました。まだまだ、ここには書き切れないほど、たくさんのお話をしてくださいました。わざわざ訪ねてきてくださり、本当にありがとうございました。

 

【構成/赤池慎吾】