梼原町ライフヒストリー集

山々の景色に父母との
思い出を重ねて

 

下元(しももと) 絹恵(きぬえ) さん


■ ご紹介 ■

 

下元絹恵さんは、昭和18年(1943年)生まれの78歳。四万川いきいき交流会でお目にかかり、梼原町での初めてのインタビューを快くお引き受け頂きました。梼原町四万川区文丸太郎田(ぶんまるたろうだ)で生まれ、幼少期は「部屋子」(へやご)として同じ敷地にある祖父母の家で暮らしました。結婚後、梼原町の人々が「奥の奥」と呼ぶ四万川区井高(いこう)に嫁がれました。嫁ぎ先から見える山々の景色に、父母の姿を重ね涙することもあったようです。


聞き取り 令和3年(2021年)5月


「姉ちゃんは部屋へいね」

「私は部屋子いうてね。わからんかもしれんけど」という聞きなれない言葉からインタビューは始まりました。梼原町では、子供に世帯を譲って隠居したものは、主屋(おもや)に干渉することを遠慮して「部屋」(へや)と呼ばれる別棟で暮らす慣習がありました。主屋に子供が多く、子育てが大変な家では、隠居したものが暮らす「部屋」で子供を預かり、「部屋子」として主屋とは寝食を別に育てます。絹恵さんは3歳の時に部屋子として祖父母の住む「部屋」で暮らすことになりました。


 両親や兄弟が住む「主屋」と、祖父母と絹恵さんが暮らす「部屋」は庭続きでしたが、食事や寝起きは別々でした。主屋ではキビ飯、「部屋」は麦飯と食事は「部屋」の方が恵まれていたと言います。「祖父母にはとりわけ可愛がられた」という絹恵さん。小学校の家庭訪問には、祖父母が同席するほどでした。

 ある日の夕食どき、父母や兄弟と食事がしたいと主屋に残っていました。弟から「姉ちゃんは部屋へいね」とつらい言葉を投げられ、泣きながら「部屋」に帰ったことを今でも覚えています。弟は、「自分たちの食事を私に取られると思ったのだろう」と振り返ります。こうした「部屋子」の暮らしは、祖父が亡くなる小学校5年生まで続きました。

 

小学校低学年の頃の絹恵さん(一列目向かって左端)
小学校低学年の頃の絹恵さん(一列目向かって左端)

山仕事の移り変わり〜炭焼きから椎茸栽培へ〜

 

 昭和25年(1950年)4月、絹恵さんは四万川西小学校に入学しました。同級生は例年の半数の12名でした。学校ではおじゃみや手鞠、おはじきをして遊びました。歌が好きだった絹恵さん。当時大好きだった「おぼろ月夜」の歌詞が口からこぼれ落ちました。


 絹恵さん一家の生計を支えたのは百姓と炭焼きでした。祖父と父は別々に炭窯をつくり、山道を30分かけて毎日通いました。窯入れや窯出しの忙しい時期には母と兄も手伝いに行き、祖母は炭を入れる「炭籠」(すみかご)を編んだ。一度だけ、祖父の窯出しについて行ったときのことです。お手伝いのまねごとをして炭籠を担いだ絹恵さんの姿を見て、祖父がとても喜んでくれたことを覚えていました。中学校にあがる頃には、炭焼きが衰退し、山仕事は椎茸栽培(原木栽培)に移りました。「炭焼き木と椎茸木は違う。炭はカシ、モミジ、ナラ。椎茸の木はナラとかクヌギじゃなきゃできないのよ。シデで栽培した椎茸の味は良くない」。これらの樹木は、植栽によらず自然落下の種子や切り株から萌芽する天然更新で、それを「オノレバエ」と呼ぶことを教えて頂きました。

 

井高集落
井高集落

嫁ぎ先から見える山々に涙した日々

 四万川中学校を卒業後、「絹は女の子じゃけん、高校にはよう行かせん」と両親に言われ、通信教育で2年間勉強を続けました。通信制を卒業する前に、出身校の四万川西小学校で用務員の職を得ました。その後すぐに四万川区の青年団団長をされていた年上のご主人・下元幸夫(しももとさちお)さんとの縁談がありました。当時18歳だった絹恵さんに、母から「なんちゃー教えてないからいかん」という話もでましたが、勤め先の校長先生が仲介され、縁談がまとまりました。結婚の決め手を伺うと「私はジャコが嫌いだった。幸夫さんもジャコが嫌いで、気があった」と恥ずかしそうに語ります。

 

ご主人との思い出の一枚。下元幸夫さん(左)と長女・富美さん(中央)と絹恵さん(右)
ご主人との思い出の一枚。下元幸夫さん(左)と長女・富美さん(中央)と絹恵さん(右)

 嫁ぎ先は、四万川区の最北部、愛媛県との県境にほど近い井高でした。当時、井高への道は舗装されておらず、同じ四万川区に住んでいた絹恵さんから見ても「奥の奥」というのが第一印象でした。

 昭和34年(1959年)、今でも大切にしている箪笥、鏡台、下駄箱の嫁入り道具とともに井高で「下元絹恵」としての暮らしが始まりました。嫁ぎ先に姑はおらず、舅、幸夫さん、幸夫さんの小学生の弟二人の家事をすべて任されました。18歳の若さで、一家の家事を切り盛りする毎日です。


 嫁ぎ先の家からは、梼原の山々を望むことができます。「里(実家)の山がずーと下に見えるのよ。そこを見ては涙が出た。こんなとこまで来たいうてね。この下にお父さんとお母さんもいるな」と夜に一人で涙を流したこともありました。それでも「私にも主人や小さい弟の面倒を見る責任があったのよ」と当時を振り返ります。「なんで来たんじゃろ思うたけどね、主人は優しかった。気遣いもあったき」と、幸夫さんの40年間にわたる町会議員生活を支え続けました。4年前、最愛のご主人・幸夫さんを亡くされました。今も井高にお一人で住まわれている絹恵さん。下元家に代々続く畑と山、そして幸夫さんの眠るお墓を大切にされていました。

 

里のある山々を背景に
里のある山々を背景に

インタビューを終えて


梼原町でのインタビュー第一号をお引き受けいただいた絹恵さん。郷土史には書かれていない「部屋子」という慣習を、実体験として語って頂きました。本文では書ききれませんでしたが、ウド、ゼンマイ、フキ、ワサビ菜など食卓にのぼる山菜料理についての話題も尽きませんでした。初めてご自宅のある井高を訪問した際、眼下に広がる山々の美しさに何度もシャッターをきりました。インタビューを終えて、この景色には絹恵さんと父母をつなぐ特別な「物語」があることを知りました。山々に囲まれた梼原町。ここにお住まいの一人ひとり心にとどめている山との物語を一つずつ丁寧に記録していきたいと思います。


【構成/赤池慎吾・増田和也】