梼原町ライフヒストリー集

梼原に向かう
バスに揺られて

 

 

下井(しもい) とし子さん

 


■ ご紹介 ■


下井とし子さんは、昭和10年(1935年)生まれの86歳(インタビュー当時)。梼原町四万川区井高(いこう)のご自宅でお手製ヨモギ茶を飲みながらインタビューさせて頂きました。とし子さんが生まれたのは、ここ梼原町から遠く離れた静岡県掛川市です。掛川と聞くと、今から約420年前、土佐藩初代藩主・山内一豊の土佐入国を想像される方もいらっしゃるでしょう。ここに、掛川と高知を繋ぐもう一つの歴史。たった一人で掛川から梼原に嫁いだ女性の物語を紹介します。


聞き取り 令和3年(2021年)5月

 


静岡県掛川市入山瀬(いりやまぜ)に生まれて

 とし子さんは、「酒飲みじゃった。祭りいうたら毎晩飲みよったよ。昔の軍歌なんかを大きな声で歌いよった。もーいやじゃったが。それでも夏には海に連れて行ってくれた」という父・大橋孝一(おおはしこういち)さんと、「よく働く人じゃった。一日中どろんこになって」という母・ふじのさんの間に生まれ、静岡県掛川駅から南に直線距離で約5kmに位置する入山瀬(いりやまぜ)で中学校を卒業するまでそこで育ちました。家は米、ミカン、お茶で生計を立てる百姓でした。水田は広く、田植えの時期には人を雇用したほどです。
掛川市内の土方村立国民学校(ひじかたそんりつこくみんがっこう)には、片道1時間かけて毎日歩いて通いました。「親が作ったわら草履を履いてね。朝おろすんじゃが、夕方にはぼろぼろになって」と当時を懐かしみます。


 土方中学を卒業後、愛知県蒲郡幸田町(こうたちょう)にあった「三菱レイヨン」に就職します。大きな工場で、とし子さんは製品の仕上げを担当されていました。「給与は掛川よりぜんぜんええ。皆でご飯を食べて、寮で生活しおった」という生活は2〜3年続きましたが、母の急死により故郷の入山瀬に戻ることになりました。

 

インタビューの様子
インタビューの様子

掛川と梼原を繋いだキッカケ

 入山瀬に戻り、実家の百姓を手伝っていたとし子さん。父親に内緒で始めたことがあります。それは、「雑誌があったでしょ。『少女画報』というてね。うちらの時代に毎月でよった」(注1)にあった「文通」です。「まー、遊び相手に、ちょっとやってみましょうてね」と雑誌に書かれていた住所に手紙を送りました。とし子さんは、手で机を軽く叩きながら「それがここの住所じゃった」と笑います。はじめは「今日何したとか、今度どこへ行く」といった日常の出来事や自分の心境を手紙にしたためるだけ。手紙が来たら返事を書く。相手もその手紙に返事を書く。約3年をかけて50通を超える文通を続けました。


 その相手が実は後にご主人となる下井次男(しもいつぎお)さんでした。プロポーズも文通でした。手紙には「結婚しよう」という言葉がしたためられていました。とし子さんは、記憶の奥底にしまってある手紙を引っ張り出すかのように「これもあった。『箸より重たいもんは持たさん』というてね。あれは言いよったぜ。それが何か。10kgや20kgのもんは持った」と私たちを笑わせます。


 二人のなれそめは「全部、文通じゃった」と言うように、顔を合わせたことはおろか電話もしたことがありません。もちろん文通をしていたことを父親は知りません。父親はとし子さんが梼原村(注2)に嫁ぐことに猛反対でした。

 

「親はまー反対した。殺されるかと思うたね(笑)」。それでも結婚の意思は変わりません。とし子さんは、正直にこれまで3年間50通にもおよぶ文通をすべて父親に見せ「この人なら正直で真面目だと思ういうてね。それで許してもろた。正直じゃなきゃいかんね」と父親を説得した言葉を口にします。入山瀬を出る最後の日、父親から言われた「人間は正直に生きなさい。災難が降りかかったら、自分で振り払って自分で前に進みなさい」という言葉を今でもはっきり覚えていると話します。

 

井高集落の春
井高集落の春

梼原に向かうバスの車内で

 結婚するために入山瀬を出たのは昭和31年(1956年)2月8日。「とても寒い日だった」と振り返ります。たった一人、早朝、掛川駅から岡山まで汽車に乗り、そこからフェリーで高松へ。高松から高知へは汽車に乗り、さらに乗り継いで須崎駅に到着した頃には既に日が沈みかかり、あたりは暗くなり初めていました。駅に着くと文通であらかじめ伝えていた赤いコートと黒い手袋を身につけたとし子さんにご主人から「はじめまして」と声をかけられます。とし子さんは「つまらんもんですが」と答えたと言います。それが二人の初めての「会話」でした。

 

 須崎から梼原村井高まではバスで移動します。当時、須崎から梼原をつなぐ国道197号は、その険しさから「イクナ峠」や、一度行くと帰ってこられなくなるという意味の「辞職峠」と異名をとるほど、難所として有名でした(注3)。
無口なご主人は、道中何も話しません。バスに揺られながら、とし子さんの頭の中には別の思いがありました。「あーしもうた。こがいな山中(やまなか)へ。いやー、これしもうた。手紙じゃわからんき。こがい山中じゃ、しもうた思うた」と、とし子さんの不安な表情がバスの窓に映っていたことでしょう。

 

健康の秘訣と呼ぶ「ヨモギ茶」
健康の秘訣と呼ぶ「ヨモギ茶」

「ヤマノモノ」に恵まれた暮らし

 入山瀬は「片田舎」、井高は「大山(おおやま)」と表現されるとし子さんに、嫁入りした昭和30年代初め、入山瀬と井高の違いについてお伺いしました。とし子さんは、しばらく考えてから「仏様をね、大事にしよった。おばあちゃんが。必ず朝にお茶とご飯をあげる。私もいまだに続けおる。仏様は大事にしてね。お義母さんも毎朝拝むけんね。仏様の樒(しきび)をきらさず、ずーと供えて。珍しいものがあったら必ず仏様へ供えて。それだけは守りよる。他はなんちゃー無い。仏様と墓だけ。大事にしよる」と答えました。


 食生活にも大きな変化があったようです。「お米に困る時代じゃなかった」といいますが、塩鯖や馬鈴薯の煮物はどれも塩辛く、嫁ぎ先の味に馴染むまで時間がかかりました。初めての春。お義母さんと一緒に山に入り、ヨモギ、イタドリ、ワラビ、ゼンマイ、フキ、ミツバやセリなど「ヤマノモノ」の摘み方や、料理を教えてもらいました。お義母さんから伝えられた下井家の味と「4月3日までにヨモギを三度天ぷらにして食べると病気せん」という習慣を今でも引き継いでいます。


 井高に嫁入りしてから66年間、5人の子供を出産し、育てたとし子さん。一度は叔父の紹介で夫婦そろって山口県に転出されたそうですが、再び井高に戻ってきました。「今考えれば、よっぽどいい所に来たとね。田舎で。空気と水がいいけんね」、「お義父さんもお義母さんもいい人でね。子守もよーやってくれた。いい人に恵まれちょった」という言葉は、不安を抱え嫁入りのバスに揺られる21歳のご自身に語りかけるようでした。

 

お手製の「ひがしやま」(干し芋)
お手製の「ひがしやま」(干し芋)

注1▷『少女画報』は昭和17年(1942年)に戦時雑誌統合令により『少女の友』に統合された。『少女の友』は昭和30年(1955年)に休刊。
注2▷昭和41年(1966年)、梼原村が町制施行して梼原町となる。
注3▷2008年に刊行した梼原町環境整備課による『「雲の上の町ゆすはら」の道』の中に記されている。

 

 

 


インタビューを終えて


とし子さんのインタビューを振り返って、ここに何を書いて良いのかしばらく考えました。それは筆者の一人がとし子さんと同じ静岡県出身ということもあるかもしれません。掛川に住んでいた当時21歳のとし子さんに、高知県梼原町井高での暮らしが想像できたとは思えません。それでも「文通」で育んだご主人との信頼関係を信じて、たった一人で知り合いも誰もいない井高に嫁いでこられました。そして、ご主人を亡くされた今、お一人でここに住み続けていらっしゃいます。とし子さんから話される土佐弁を聞くと、60年以上をかけてこの地に馴染もうとするとし子さんの人知れぬ苦労が垣間見えた気がしました。


【構成/赤池慎吾・増田和也】