梼原町ライフヒストリー集

「山は作って

喰うところじゃった」

 

高橋(たかはし) 俊清(としきよ) さん

 


■ ご紹介 ■


高橋俊清さんは、昭和3年(1928年)生まれの94歳。梼原町を流れる四万川川の最上流部に位置する四万川区奥井桑(おくいそう)にお住まいです。生まれてから現在まで、奥井桑で山と共に暮らしてきました。俊清さんが「山は作って、喰うところじゃった」と言う、奥井桑の暮らしを教えて頂きました。


聞き取り 令和4年(2022年)11月、令和5年(2023年)2月

 


遊び場は草刈り場

 

俊清さんは、父・高橋茂太郎(もたろう)さんと母・千代(ちよ)さんの9人兄弟姉妹の三男として、四万川区奥井桑に生まれました。通っていた坪野田(つぼのた)尋常小学校には、同級生が18人いました。当時、ここ奥井桑だけでも20人、今は奥井桑と下井桑(しもいそう)、高階野(こうかいの)の3つの集落を総称して「井高(いこう)」と呼ばれるこの地に60名の児童がいました。学校では、勉強をしたことよりビー玉落とし、竹馬、手ぬぐいを握る人と引っ張る人に別れて奪い合う遊びをしたことばかり今でも鮮明に思い出す、と当時を振り返ります。

 

学校から帰るとすぐ、研いだ鎌を持って、近所の友達と牛の餌にする草刈りに出かけます。茅の若い「青草」(あおくさ)が生え始めた春から夏にかけて、「雨の日以外は毎日草刈りに行った」と言います。5束か6束の青草を刈り終えたら、友達と相撲をとったり、鬼ごっこをしたり。草刈り場が俊清さんの遊び場でした。日が落ちかけた頃、カルイコに青草を背負って帰宅します。家に着いたら、青草をハミキリで細かく切り、キビの芯を加えて、牛に与えました。秋から冬にかけては、茅を刈って柔らかいうちに太陽にあてて干し、カラカラにして、藁を混ぜて牛に与えたと言います。


俊清さんが毎日草を刈り、餌を与えていた牛。高橋家では、「人間で言ったら娘ぐらいの年齢よ」と言う若い牝牛を一頭買い、種付けして、子を産ませます。生まれた子牛は、顔の知った「博労(ばくろう)さん」に売り、お金にする。「これが農家の楽しみで飼いよった」と、農家の貴重な現金収入を俊清さんの草刈りが支えていました。

 

かつて俊清さんの遊び場であった「草刈り場」
かつて俊清さんの遊び場であった「草刈り場」

奥井桑の屋根の数

 

草刈りの話はまだまだ続きます。俊清さんの幼少期、草を手に入れる場所は放課後に草刈りをした「草刈り場」の他に、集落で共同管理・利用した「採草地」と屋根を葺くための「茅場」(かやば)がありました。

 

奥井桑では、毎年9月22日、「採草地」の草刈りが許可されました。梼原町では、「採草地」での草刈りを「バイ草刈り」と呼びます。俊清さんはその語源を「人が草を奪い合うように刈る」からだと、教えてくれました。俊清さん家族も、前日から鎌をよく研ぎ、朝日が昇ってから山の高いところにある「採草地」に登りました。


奥井桑は、他の集落に比べ草に余裕があったため、「奪い合い」は無かったと言います。草が豊富な奥井桑は「下井桑では1頭しか牛が飼えないが、奥井桑は牛2頭飼える」と言われたとか。草は直径30cmほどの束に縛り、30束をまとめて円錐形に積み上げ畔(くろ)を作る。数日間で40〜50の畔を作り、乾燥させ、翌年に「ジャンジャン」と呼ぶ金吊るに滑車を付けて運び、牛の餌や敷料、肥料にした。「採草地」での草刈りと「ジャンジャン」での運搬は、次女が生まれた昭和36年(1961年)まで記憶していると言います。


高橋家では、昭和47年(1972年)に家を建て替えるまで茅葺き屋根でした。屋根を葺くための茅は、牛の餌や肥料にする茅とは異なり、長く、太く、丈夫で、それを刈る場所は「草刈り場」や「採草地」と区別して「茅場」と呼ばれていました。「茅場」の茅は大切にされ、牛の餌や肥料に使うことが禁止されていました。12月になると「茅場」から茅を切り出し、毎年4月末には大人も子供も集落総出で火入れをしたと言います。


屋根を葺き替える「屋根替え」(やねがえ)は、集落の「いいいれ」(結い)で行われました。「いいいれ」とは金銭を伴わない労働交換です。奥井桑には、「25軒の家屋があった」と言い、一年に大体一カ所、どこかで屋根替えが行われていました。さらにお話を伺うと、「井高」の三集落では「茅のお講」があり、例えば、奥井桑で屋根替えがあるときには、下井桑、高階野の各集落からそれぞれ20貫目(筆者注釈:約75kg)の茅の提供を受けた。高橋家で最後に屋根替えが行われたのは、俊清さんが栄さんと結婚する数年前、昭和20年代はじめの頃だったと記憶していました。

 

「このくらいを一束にして」と説明する俊清さんと妻・栄さん
「このくらいを一束にして」と説明する俊清さんと妻・栄さん

「どの山もみんな伐畑(きりはた)じゃった」

 

高橋家では、三反五畝(筆者注釈:約35アール)の水田と、畑でキビ、大豆、小豆や自家用の茶を生産していました。当時、水田と畑だけで生計を立てることが出来た家は、「井高」に3軒しか無かったと言います。どの家も先祖から伐畑(きりはた)を作って暮らしていました。俊清さんが「山は作って喰うところじゃった」と言うように、山は食料生産の場所だったのです。


7月頃、自分の山を伐採し、焚き物(筆者注釈:薪などの燃料)に使える木は取り除き、一カ月ほど乾燥させます。夏になると、山に火をつけて焼きます。大概は高橋家の一家総出で焼きましたが、大きな藪を焼く際や危ない時は、近所から人を「雇う」ことをしました。人を雇ったら、金銭ではなくそれを自らの労働で返します。これを俊清さんは「いいいれ」(結い)と呼びます。


火を入れて一雨降った後は、初年度はソバを播きました。翌年から3年目頃まで、作れる間は豆やキビを播く。地力が衰え、「作物のできが悪くなる」と、今度はミツマタを植えました。ミツマタは、苗を植え、収穫まで3年ほどの年月を必要とします。「毎年、順々にやらんといかん」と言うように、一年で1〜2カ所ほど伐畑をして、「喰うところ」を確保しました。俊清さんが26歳で同じ奥井桑に住んでいた栄(さかえ)さんと結婚した昭和29年(1954年)頃には、新たに伐畑はやらなくなっていたと言います。

 

今でも所々に顔を出すミツマタ
今でも所々に顔を出すミツマタ

伐畑から杉の植林へ

 

山を焼き、ソバ、キビ、豆を蒔き、ミツマタを栽培・収穫し終えると再び雑木林にもどすという伐畑のサイクルは、ミツマタの病気が蔓延したことで徐々に衰退しました。ミツマタを収穫し終えた後、雑木林にはせず、杉を植えていきました。俊清さんが初めて杉を植えたのは、二十歳になった昭和23年(1948年)の頃だったと記憶していました。

 

植林する苗木を購入することは金銭的に容易ではなく、山で杉の実を拾い、実の隙間から種(種子)だけを取り出し、苗床で発芽させます。発芽した数センチの幼苗を「毛苗」(けなえ)と呼びました。毛苗を丸二年育て、杉の実から3年目となる「山行き」(やまいき)苗を伐畑で「ミツマタがいけんくなったところ」に植えていきます。「はよ植えんと、雑木が太りはじめて、杉が植えられなくなる」ため、伐畑から杉林への転換は急速に進みました。


4月から5月にかけての約2カ月間、1,500本から2,000本の山行き苗を伐畑に植えました。多い時には、3,000本の苗木を植えたと話します。これら全ての苗木は、俊清さん自身が杉の実から苗木にしたものでした。植林後、3年間は下刈り作業です。5年もすると木が生長し、今度は枝打ち作業と面積が増えるほど、仕事も増えていきました。年を重ねるごとに、伐畑に杉が植わり、周囲の景色は段々と緑になっていったと、懐かしみながら語ってくれました。

 

かつて伐畑だった杉林を眺めて
かつて伐畑だった杉林を眺めて

インタビューを終えて


茅場の話をしていた時のことです。私はふと疑問に思い、「奥井桑にはどのくらい屋根があったんですかね」と伺うと、俊清さんは「25軒の家屋があった」と即答されました。私はその回答の早さと、屋根替えのために屋根(家屋)の数を正確に記憶していたことに、驚きと感動を覚えました。茅がどれだけ貴重で、屋根替えがどれほど重要な仕事であったのか、どんな言葉よりも雄弁に物語っていたからです。お話を伺い、私はこれからも、山と里を繋ぐ人々の記憶を少しでも多く記録していきたい、と心から思いました。


【構成/赤池慎吾・
増田和也