梼原町ライフヒストリー集

「サンガンノマルケ」に
込められた家族の想い

 

 

津野(つの) 直子(なおこ) さん

 


■ ご紹介 ■


津野直子さんは、昭和12年(1937年)生まれの84歳(インタビュー当時)。祖父の代から三代続くご自宅にお招き頂きました。生まれてから今まで、梼原町四万川区神の山(かみのやま)で暮らしてきた直子さん。一年間を通して、山と密接に関わり暮らしてきました。いまでは見ることができなくなった、梼原の人々と山との深い繋がりを約2時間にわたり語って頂きました。


聞き取り 令和3年(2021年)11月


先祖代々・神の山に暮らして

 

 梼原町四万川区神の山、見晴らしの良い所に建つ津野直子さんのご自宅。「この屋地(やじ)で生まれました。祖父が一代目。私が三代目になる」と、明治5年生まれの祖父・津野直助(つのなおすけ)さんが、神の山にある本家から分家して建てた家だと言います。お話を伺うと、江戸時代に生まれた曾祖父・津野惣太郎(つのそうたろう)さんも神の山に暮らしており、先祖代々この梼原町四万川区神の山で暮らしてきました。


 父・津野繁太郎(つのしげたろう)さんは、身体が弱く、直子さんが6歳の時に亡くなりました。直子さんの記憶では「病院ばっかり行きよった」そうで、当時3歳だった妹・福江(ふくえ)さんは「父のことを覚えていない」と言います。祖父母と二人姉妹の生活を支えてくれたのは、直子さんが「お母さんみたいな人じゃった」と語る叔母のフジヱさんでした。「うちは元気な大人がおらんき。叔母が難儀したと思うぜ。偉かったと思うね」と、何度も叔母への感謝を口にしていました。


 昭和19年(1944年)4月、直子さんは山を一つ越えた坪野田(つぼのだ)小学校(当時、坪野田国民学校初等科)に入学しました。同級生は女子12名、男子8名の計20名。中学卒業までずっと一緒でした。毎朝、神の山に住む同級生「かずこさん、よしみさん」と3人で、約40分かけて歩いて通学しました。杉や楢の林を抜け、「いけのとう」という峠を越えると陽が差し込むカヤンボ(茅場)が広がっています。直子さん達が「ながみち」と呼んだくねくねと折れ曲がったカヤンボの小路の先に学校がありました。学校で一日中遊び、片道40分の山道を歩いて帰る頃には草鞋(わらじ)はぼろぼろです。草鞋は毎日履きつぶし、雨の日には換えも必要でした。高学年になってもなかなか上手く草履を編めない直子さん。直子さんが作った草鞋を見た祖母は「それで履けるか」と言いつつ、毎日丁寧に編んでくれたと言います。

三代続く直子さんのご自宅
三代続く直子さんのご自宅

ミツマタの花が咲く前に

 

「田んぼが少なく、山にミツマタを植えて生計を立てていた」という直子さん一家。ミツマタは種を蒔いて苗を育て、それを山に植え付けます。その後、周りを「くわうち」して耕し、夏は何度も草刈りをして、太く太く育てます。山に植え付けてから収穫まで、3年を要します。


 春はミツマタの収穫で最も忙しい季節です。ミツマタは、春に蜂の巣のような独特な形の美しい花を咲かせます。しかし、直子さん達はミツマタの花を見るわけにはいきません。花が咲く前、2月から3月のうちにミツマタを収穫しなければならないからです。子供の直子さんも遠く離れた山で収穫したミツマタをオイコに背負って手伝いました。「学校を休まされて。嫌じゃったけど。しゃあないね」と、当時を振り返ります。その時背負ったオイコが、今も納屋に保管されていました。


 収穫したミツマタは、各家の大きな釜に「蒸しかご」と呼ばれる蒸し器を設置して3時間ほど蒸し、熱いうちに皮を剥ぎます。多いときには、朝の3時に釜の火をおこし、一日に4〜5回も繰り返したそうです。この作業は人手がいるため、近所の人たちが労働力を交換しあい作業を行いました。神の山では「いいかえ」と呼んでいました。直子さんも、中学校の頃までは「いいかえ」で近所の手伝いにたびたび参加したと言います。


 剥いだ皮は稲木に干して乾燥させます。きれいに乾燥させないとカビが生え、売り物になりません。そうしてカラカラに乾燥したミツマタの皮を「サンガンノマルケ」(注1)にして出荷します。「それができたらやっとホッとするわね。お金になるまでにどれだけかかるかね」と一年の努力が報われる瞬間です。

 

納屋に保管されているオイコ
納屋に保管されているオイコ

「ソバ藪を打つ」

 

 ミツマタの収穫が終わり、一息つくとまもなく、今度は「ソバ藪」(そばやぶ)が始まります。「ソバ藪」とは、山などで雑草や灌木を焼き、その焼け跡にミツマタやソバ・キビなどを栽培することです。直子さんは「ソバ藪」や「ソバ藪を打つ」と呼んでいました。


 津野家では、春になると所有する山林の雑草や灌木の生い茂る荒れた所を選んで伐採し、そのまま十分に乾燥させます。面積や伐採時期は、山の状態により様々でした。ソバ藪の周囲には「火道」(ひみち)と呼ぶ幅1メートルの防火帯を設けて、近隣に延焼しないよう細心の注意を払います。夏の盆前、「いいかえ」で集まった近所の人たちと火入れ作業です。9月に入り、焼き跡を耕しソバの種を蒔きます。この一連の工程を直子さんは「ソバ藪を打つ」と呼んでいます。毎年、梼原のどこかで「ソバ藪」が行われていたと言います。中学校を卒業した直子さんは、家の手伝いをしながら、何度もこのソバ藪打ちの「いいかえ」に参加しました。

 昭和38年(1963年)、豪雪災害に加え、台風災害、長雨災害が梼原町に甚大な被害をもたらしました。直子さんが「ひやく」と呼ぶ賃労働に行くようになったのは、この頃からだったと言います。「一日で250円もろうたろか」という土木作業では、「つるで掘ったり。泥を担ったり。川の砂をあげるのを担ったりね。こまいスコップでセメント練ったり」して働きました。直子さんは「みょーに覚えてないが」と前置きした上で、ちょうどこの頃からミツマタ栽培や「ソバ藪」が無くなり、「いいかえ」に出ることも無くなったと言います。

今では失われたソバ藪(焼き畑)の風景(撮影地:滋賀県余呉)
今では失われたソバ藪(焼き畑)の風景(撮影地:滋賀県余呉)

子供達に伝えた「バイクサ刈り」の教訓

 

 直子さんが「だいぶ前に無いなったけど。もう何十年も前だけど」と語る、神の山にたくさん人が住んでいた昭和20〜30年代の記憶が蘇ってきました。毎年9月20日、田んぼや畑の肥料に使う茅を採取するため、集落総出で山に入る「バイクサ刈り」の記憶です。口開けとなる9月20日、夜12時をまわると、神の山、坪野田、茶や谷(ちゃやだに)に住む住民が、提灯をぶら下げ、何十人も山にあがって行きます。津野家では、この時ばかりは祖父も両杖をついて、家族総出で山にあがりました。山では「直じいが来たぞ」と歓声があがったと言い、直子さんはそのことをはっきりと覚えていました。


 山にあがると、それぞれ自分の一番良いと思う場所に腰を下ろし、あちらこちらで雑談が始まります。神の山だけでも40〜50人が参加したと言い、この時間が当時はとても楽しかったと語ります。夜が明けると、和やかな空気は一転して真剣勝負が始まります。各人が手に鎌を持って、一年間に必要な刈敷(かりしき)となる「バイクサ」(まだ青く丈の低い茅)を刈り取ります。夜明けから辺りが暗くなるまで刈り続けます。口開けの日から4〜5日間、お弁当を持って「バイクサ刈り」に行きました。刈り取ったバイクサは、30束を一つの畔(くろ)にして乾燥させます。直子さんは一日に三畔ほどバイクサを刈ったと言います。中には一日に七畔も刈ったという人がいたようです。

 

神の山集落と採草地の山 出典:国土地理院空中写真(1975年11月20日撮影)をもとに筆者作成
神の山集落と採草地の山 出典:国土地理院空中写真(1975年11月20日撮影)をもとに筆者作成

 「バイクサ刈り」は集落の人であれば、誰がどこを刈っても良いというルールです。誰もがバイクサが多く生え、刈りやすい「ええところ」を目指します。直子さんも「人の刈り口はきれいにえーように見えるがですよ。私らは鎌下げてまわるのですよ」と少しでも良さそうな所を目指して何度も場所を変えました。すると「歩き出したらちーとも集まらん」と語るようにバイクサはぜんぜん集まりません。後ろを振り返ると「最初に自分が刈りだしたところがええのよ」と笑います。バイクサ刈りで得たこの教訓は、直子さんの心に残り続けました。4人の子供達が就職する際には、「人の所はえーように見えるけど、やっぱり最初からやらないかん。絶対変わったらいかん。」と、バイクサ刈りで得た教訓を伝えたと言います。

 こうして苦労して刈り取ったバイクサは、カナヒモで里まで運び、家の近くで畔を作り乾燥させました。秋。稲木に架けられた米やキビ、漬け物用の白菜や菜っ葉などが里を彩ります。直子さんが「農家の総仕上げ」と呼ぶ季節です。連日、どこの家庭でも麦を播くため畑に水をまいて、バイクサを入れて畑を打つ光景が広がります。「綺麗ながやったで。どこいっても畑を打ちよった。皆なあがやるけん」と、山と里を繋ぐ物語を語ってくれました。

畔のある風景(撮影地:梼原町)
畔のある風景(撮影地:梼原町)

注1▷「サンガン」は三貫(11.25kg)、「マルケ」は束の意。乾燥したミツマタを3貫束で出荷した。

 

 

 


インタビューを終えて


梼原町でインタビューをさせていただく中で、「サンガンノマルケ」という言葉をたびたび耳にします。直子さんのお話を伺い、「サンガンノマルケ」には一年間におよぶ家族の労力が詰まっていることを学びました。さらに「いいかえ」や「バイクサ刈り」などご近所や集落での共同作業があり、山が人を繋ぐ役割を担っていました。現在においても、こうした山と人を結ぶ、言葉や体験があるのでしょうか。インタビュー調査を続けながら、しっかりと考えていきたいと思います。


【構成/赤池慎吾・増田和也】