中芸みんなの日本遺産〜「サブストーリー」コレクション〜

森林鉄道が時計代わり

 

竹内たけうち 裕美ひろみ さん


◆ ご紹介 ◆

竹内さんは、昭和11年(1936年)生まれの80歳(インタビュー当時)。安田町東島(やすだちょうひがしじま)に生まれ、幼少期から青春時代を安田町で過ごしました。父親を戦争で亡くし、母親と兄弟2人で農作業を手伝いながら高校に進学したといいます。「どうしても高校に行きたかった」という竹内さんのとっておきの進学秘話を語っていただきました。とにかくお話しが上手な竹内さん。戦後間もない安田町の暮らしを、生き生きと語っていただきました。

 

聞き取り 平成29年(2017年)9月


森林鉄道が時計代わり

「私、本当は昭和12年(1937年)10月生まれなのよ」という話から、インタビューが始まりました。お話を伺うと、病弱で生まれたため、すぐにお寺に預けられたとのことです。そこの住職から生年月日を変えることを薦められたという。「そういう時代だったのよ、当時はね」と笑顔でお話しになっていました。

 

「当時は一学年でだいたい250名ほど子供達がいてね。今では考えられないでしょ。当時は男女別々のクラスで4クラスあったね」。

 

 安田国民学校初等科(現在の安田小学校)に入学してすぐに、父親を戦争で亡くされた竹内さん。「よその家は終戦で父親が帰ってきたが、自分の家には帰ってこなかったのが寂しかった。そういう家は少なくなかったね」。終戦後、母親と兄、小さな弟と協力して、家の農作業を手伝いながら、学校に通ったという。「その頃は、米のほかに家で葉たばこを作っていてね。たばこの乾燥場もあったのよ。葉の色で一等、二等って仕分けをしてね。たばこは脂(やに)が付くでしょ。あれが髪についてね、なかなかとれないのよ」。中学3年生まで、ほぼ毎日、農作業のお手伝いをしていたそうです。

国民学校時代。竹内さんは二列目の右端
国民学校時代。竹内さんは二列目の右端

 子供の頃は森林鉄道に乗車することが無かったいう竹内さんですが、ちょっと変わった使い方をされていたようです。「農作業をしていると、すぐ近くをガソ(筆者注釈:当地では森林鉄道の機関車のことを「ガソ」(またはガソリン)と呼んでいた)が決まった時間に通るのよ。子供の時から田んぼで働きよったら森林鉄道が時計代わり。何時に自分の田んぼの横通るでしょ。田んぼの作業しよっても11時半にガソが通りゆうき、もうちっとしたらお昼やねえとか。ガソが通るのをねえ、時計代わりにして家族みんなあでねえ。運転手さんが手を振ってくれて。行き(筆者注釈:馬路(うまじ)から田野(たの)への下り)は木材満載で行きゆうけど、帰り(筆者注釈:田野から馬路への上り)は空(から)でね」と暮らしの中に森林鉄道が溶け込んでいた風景が目に浮かびます。

 

あこがれの高校生活

 中学卒業後、どうしても地元の中芸高校に進学したかったといいます。「金の無い子が行くのはダメ」と母親に反対されながらも、諦めなかったのが竹内さんのすごいところです。「当時、私のおじいちゃんが役場におったからね(筆者注釈:勤めていた)。そこに竹内という判子(はんこ)があるから、それをこっそり借りて、そこでこっそり判子を押して願書を出したの(笑)。その時は笑いごとやなかったわね。必死でね。試験も受からんといかんでしょ。試験を通らざったらもう諦めようとね。試験が終わって何日経ったかね。5日目かしらんに合格発表があって、見に行ったら合格だったの。そうなったら親も許してくれました(笑)」。

 

 昭和27年(1952年)、あこがれの中芸高校に入学した竹内さんでしたが、暮らしは決して豊かでは無かったと言います。「中芸高校の月謝は1,500円。月謝を払えない月があってね。未納者の名前が掲示板に張り出されるのが嫌でね」。それでも毎日、約4kmの通学路を歩いて通いました。同級生で地元から徒歩で通学していたのは竹内さんお一人だったようです。「貧しかったので自転車は買えなくてね。通学途中、自転車に乗った友人が「荷物載せーや」とか「先、荷物教室おいちょくき歩いて頑張ってきーや」って鞄を持ってくれたりね。嬉しかったね」。

竹内さんが中芸高校に通った道。当時の森林鉄道軌道は道路になっている。
竹内さんが中芸高校に通った道。当時の森林鉄道軌道は道路になっている。

「ガソ」の中の風景

 徒歩で通学していた竹内さんですが、ときどき中芸高校の近くの駅まで森林鉄道に乗せてもらったこともあったようです。「高校へ通う時に森林鉄道が通るでしょ。「ガソ」って言うたがね、私ら。セーラー服着て走りよるでしょ。ほいたらね、運転手さんがそこで停めて「早うきい、早うきい」言うて待っちょいてくれるが。乗るところの背が高いから、セーラー服をめくりあげて乗ってね。高校の下で降ろしてくれてね」。どうやら駅では無いところに停車して、竹内さんを乗せてくれたことがあったようです。

 

 当時、森林鉄道に乗車していた多くは生徒達でした。晴れの日は空席が目立ちましたが、雨の日には自転車で来られない安田町中山地区の生徒が森林鉄道に乗車し、寿司詰め常態でした。森林鉄道に揺られながら通学した思い出を語る竹内さんには、今でも忘れられない光景がありました。「ガソに乗っていたのはほとんどが生徒だった。そのなかで、馬路から田野町の郵便局に勤めていた女の人がいたの。綺麗な服を着ていたのを覚えてるわ」。学生服やセーラー服の生徒の中で、その女性がひときわ美しく、輝いて見えたのでしょう。多くの生徒の青春時代を支えた森林鉄道。生徒一人ひとりの夢と希望が詰まっていたのかもしれません


インタビューを終えて


竹内さんには、何度もインタビューをさせていただきました。森林鉄道は「木材を運搬し、住民の交通手段として利用されたもの」という先入観があった私に、「森林鉄道は時計代わりね」という竹内さんの語りはとても衝撃的でした。私が想像していたよりも遙かに森林鉄道は暮らしの中に溶け込んでいたということを、教えていただきました。

 

【構成/赤池慎吾】